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項目 内容
ID J2700874
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1894/10/22
和暦 明治二十七年十月二十二日
綱文 明治二十七年十月二十二日(一八九四・一〇・二二)〔庄内地方〕
書名 〔自明治二十七年手扣大〕山形県東田川郡広野村同村々長菅沢伝太郎筆菅沢營次氏蔵
本文
[未校訂]十月廿二日
一於藤嶋村午後六時少し前頃劇震甚し藤嶋所々地裂け砂
水吹上たり郡役所邸内藤嶋役場邸内少々地さけたり下
町ハ水吹出したる場所道筋ニ多し家々所々いたみあり
一弥治郎江宿泊す地震即北方一圓大火言に尽し難し
十月廿三日
一朝藤嶋郵便局へ私宅川土持一条手(地名)向江劇震之所身体無
事之趣申遣
一朝飯後藤嶋発八色木豊栄長沼土口を経、福岡ニ来リ表
作ニ□震災の実況を承り興屋ニ越して検分済、広野新田
上村ニ者阿部明英其他共掲示場脇ニ板片を敷て居れり御
用談阿部氏并巡査中針氏相談し直に広野新田上村より
大渕十五軒下中村奥井新田ニ至り帰路下中村善治ゟ挑
灯を借り中村迠置皆実況済上村ニ来り所々検分し時ハ
午後九時過頃なり惨状甚し時々微震あり役場ハ運よく
害なし然れとも内ニ居る事能ハす村社境内に夜は宿す
各自皆此の通りなり
十月廿四日
一郡衛警察官被出張震災調大多忙
一夜ハ昨日之通り村社境内ニ居る
十月廿五日
一郡衛警察官今日も出張あり
十月廿六日
(注、知事の巡視関連記事のうち被害に関係ない部分省略
「拾遺」三六四頁上11~三六五頁上最終行までと同文
省略)
十一月二日
一廿二日大震以来日々昼夜微震のある中に今日午後五時
過之地震当廿二日後の強震にて柱時計止まれり此頃四
五日外へ走りいてさる処皆外にかけ出つ
(注、見舞と侍従等の巡回記事省略)
十二月十四日
一震災潰家毎戸今日ゟ実査巡回同十八日相済
十二月廿九日
一当月十四日ゟ十八日迠五日間村内毎戸巡回実検するに
震災即倒家屋百七十壱戸外ニ破碎家屋之甚敷もの弐拾
五戸加へて□(全潰カ)□百九十六戸なり百七十一戸之実況惣計
左の如し
一即倒家数百七拾壱戸(総戸数弐百八十六戸ノ内)

福岡 六十四戸 七十八戸ノ内
大渕 拾弐戸 三十九戸ノ内
広野新田 九十五戸 百六十九戸ノ内

上村 四十三戸 八十八戸ノ内
十五軒 八戸 十八戸ノ内
奥井新田 十一戸 十四戸ノ内
中村 十六戸 弐十四戸ノ内
(興屋并
萱積場
八戸 九戸ノ内
下中村 九戸 十六戸ノ内
一震時家戸人口 千百三十四人

福岡 三百七十九人
大渕 七拾六人
広野新田 六百七十九人

上村 弐百八十六人
十五軒 四十七人
奥井新田 八十六人
中村 百三十人
(興屋并
萱積場
五十弐人
下中村 七十弐人
一震時走出人口 弐百九十三人

福岡 六十三人
大渕 十七人
広野新田 弐百十三人

上村 七十弐人
十五軒 弐拾四人
奥井新田 九人
中村 六十九人
(興屋并
萱積場
拾弐人
下中村 弐拾壱人
一震時不出人口 八百四十壱人家倒ルヽニ出兼タル人ニシテ潰レテ后ニ中ヨリ自ラ破リ出又掘リ出サレタリ内四十七人ハ圧死セリ

福岡 三百拾六人
大渕 五十九人
広野新田 四百六十六人

上村 弐百拾四人
十五軒 弐十三人
奥井新田 七十七人
中村 六十壱人
(興屋并
萱積場
四十人
下中村 五十壱人
右百七十壱戸ノ内百六十一戸即倒翌日壱戸倒其後弐戸
崩シ小屋掛せり依テ本表ニ込ム外弐拾五戸極々ノ破碎
合シテ百九十六戸本村ノ実潰ニ取調タル旨本郡役所第
一課へ十二月廿四日申進タリ

三十弐戸大破調たり其他ハ悉皆小破也小破トハいへと
も梁破損又ハ棰タルキ根動きしものにして手を付すしてす
むものハ壱戸もなし実に非常の地震なり
十二月三十一日
一今暁地震あり長し微中之強なり他の人も目をさました
らんと申合へり昨卅日夜震災調至急ニ付夜□(業カ)一時
過ニ止め二時に寝たるに震の家をうこかす音にて堪す
音を発したる事なれハ寝入たるにさへ此震を知られり
此夜中ハ地震の気離れたるに運動いまた定まらさるな
るべし
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 1017
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山形
市区町村 広野【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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