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項目 内容
ID J2700725
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1830/08/19
和暦 文政十三年七月二日
綱文 天保元年年七月二日(一八三〇・八・一九)〔京都〕
書名 〔石山寺の彫刻拾遺 (上)〕岩田茂樹著「MUSEUM」No.529、一九九五・四月号東京国立博物館編H7・4・1 ミュージアム出版発行
本文
[未校訂] 一方両脇侍像については、現存像が塑像であることか
ら、承暦二年の罹災後の再興に際しても塑像とされたか
と想像される。しかし現存像は作風からみてとうてい平
安後期のものとは思われない。
 この両脇侍像について、宇野茂樹氏は室町時代の作で
はないかとみておられる8が、現在の中尊および両脇侍を
納める巨大な厨子の内部向かって左奥の壁に立てかけて
ある丈六坐像用の光背の裏面にある次の墨書は注目され
る。
当寺諸伽藍有成就御堂」従供養時開帳有之処」本尊
之御光并脇立悉□及破壊重而依不申上」世尊院権律
師景祐本願元栖上人両人為」馳走奉造立♠仏師」心
橋三衛門中広同名忠次郎」浄安棟梁山科□」遊
楽無妙阿弥陀仏」大工藤原朝臣出雲」棟梁石見也」
慶長八癸卯年五月五日9
 すなわち、慶長年間の石山寺諸堂宇の復興時、本堂供
養に際して本尊の厨子を開帳したところ、中尊の光背と
脇侍像が大破している光景が発見されたが、その後慶長
八年(一六〇三)にいたって「造立」が終わったという。
 字野氏はこれを修理と解されたが10、光背・脇侍像とも
に悉く破壊に及んだといい、造立したという以上、新造
とみることも可能だろう。また宇野氏は、創建当時の神
王像の頭部と伝える塑像片が寺に保存されていると書い
ておられる11が、これはおそらく図8・9(注、図は省略)
の二面をさすものであろう。二面のうち赤い面が執金剛
神、青い面が蔵王権現として造られたようである。この
うち蔵王権現の面部を納める木箱の蓋裏に次の墨書があ
る。
去文政十三庚寅年七月」二日申剋大地震為時」節哉
蔵王権現尊面」崩裂落京師田中蔵之蒸(ママ)」精進奉脩補
之畢崩裂」之尊面謹而聚綴終全」奉納于斯箱者也」
于時天保二辛卯年正月年預権僧正実淳
 文政十三年(一八三〇)の地震によって蔵王権現像の面
部が崩れ落ちたので、これを修理し、旧面部はつくろっ
て箱に納めたという。一方、執金剛神像の面部を納める
箱に墨書はないが、作風・材質ともに蔵王権現と一致し、
同時期のものとみてよい。したがって現在厨子内に安置
されている両脇侍像の面部は、文政十三年から天保二年
(一八三一)にかけて新造されたものということになる。
 さてこの木箱に納められた二つの面部だが、赤みを帯
びた相当粗い土質であり、出開帳に供された塑像片とは
全く異なった材質である。作風からみても、おそらく上
記した中尊旧光背銘にいう慶長八年の作とみてよいだろ
う。
 以上から、現在の両脇侍像は江戸時代初期の慶長八年
頃に造立ないし根本的な修理がおこなわれ、その後さら
に江戸時代後期の文政十三年から天保二年の頃に修理を
経ていると推考される。しかし、収蔵庫に収められた出
開帳用の木箱のなかに、かりに脇侍像の断片が含まれて
いるとしても、それがいつの時期に制作された部分であ
るかについては、文献的には明証を欠くといわざるをえ
ない。

8 宇野茂樹『近江路の彫像―宗教彫刻の展開―』(雄山閣、
昭49)109~110頁。
9 同右所収。傍点筆者。
10 同右109頁。
11 同右110頁。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 991
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 滋賀
市区町村 石山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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