[未校訂]赤色の雪
寛文の地震より八十六年ほど後の寛延四
(一七五一)年の四月二十五日にまた大地
震が起こった。この年の十月二十七日に宝暦と改元され
ていることから、宝暦元年の地震とすることもあるが寛
延四年が正しいのである。地震が起った時間も四月二十
五日の夜八ツ時とあるが、正確には二十六日暁八ツ時、
夜中の二時であり、後記のように人畜被害が多く出たの
も当然であろう。この震災の模様については「古記録集
成」(清水藤光写)に詳しいのでこれによって見ることに
する
日行月亦た来って其年も既に暮れ、明れば寛延四辛
未年に至り諸人も去年の潤にて卯年(延享四年の水災)
以来の艱難辛苦を忘れ果て、かくて正月は新年の御慶
も始まり歌や笑ひの絶し世も一時に賑ふ世と換り、峯
も下りて渕となり、渕も上りて峯となり、明日は渡世
と換るとも知らぬものこそ哀れなり、早正月も末方の
廿五日の夕方より雪降り出して、同廿九日の明け方に
小粕の如き赤色なる雪降来り、依之亦もや危変の来る
かと皆人顔を見合へけり。
実に光陰蛇玉の如くにして四月廿五日に至り、同日
八ツ時俄に大地震動して山も一時に崩れ、人家を潰し
人馬鳥獣の即死夥敷、能生谷西の方、西は平村より槇
村迄、東は鷲尾村より高倉村迄、此村々は別して山崩
れに懸り、家屋を潰し人馬の怪我夥敷、平村にては皆
潰一軒半潰れ十二軒、槇村にては皆潰五軒半潰数多、
同村治郎左衛門即死す、此外谷中村々半潰れ怪我人等
無之村は更になし、此地震毎月昼夜数度動き諸人困却
少なからず、依て谷中村々相談整ひ藤後村庄屋太郎右
衛門を以て伊勢大神宮へ祈念の代参を立て、則祈念す
るに御師より一万度の御祓御附与相成り代参[無恙|つゝがな]く帰
国致され、尚亦谷中相談の上御祓は槇村金山権現へ奉
納す、亦十二月に至り伊勢御師より五千度の御祓能生
谷村々へ壱封つつ御下与相成り、依て村々より御初穂
として銭五百文づつ献納す。
と誌しているが、後述の如く名立以東の各村々に比べれ
ば能生谷の被害は小さかったようで、寛延四年の御用留
でも、
一能生谷ハ地震軽ク、谷中潰家参拾弐軒、死人四人、
内壱人槇村耕田寺弟子名立小泊村宗竜寺ニ而相果、壱
人ハ槇村次郎左衛門年九拾壱才ニ而家潰ニ而梁桁之下
ニ成相果、壱人ハ高倉村与七郎子壱人鷲尾村由右衛門
弟ニ候、右之内六軒槇村治郎左衛門潰、半潰ハ四郎右
衛門、太郎右衛門、庄左衛門、与左衛門、太郎右衛門
ニ候
と記している。また、『西頸城郡誌』の中で、「糸魚川に
ては破損家屋一、二軒のみにて他は災害なし。」と意外な
のに対し、東側は有名な「名立崩」を引き起こした大震
災であつたことから、震源地は西頸城東部地方あるいは
もっと東寄りの地であったと考えられる。
赤気立ちのぼりて火事のごとく
この地震の起こった時の状況につい
て『越後頸城郡誌稿』では、「此大震
ノ前日四月二十五日ハ昼空色薄赤ク風モナク、霞雲リニ
テ空合近ク暑キ事六月ノ時候ノ如シ。同日暮頃鳥東ノ方
へ飛行クコト数多シ。然ル処其夜右ノ変事アリ。」とあり、
また「名立崩」をあれほど有名にした橘南谿の『東遊記
巻一』の中では、
名立の駅は海辺の事なれば、惣じて漁猟を家業とす
るに其夜は風静かにして天気殊によろしくありしか
ば、一駅の者ども夕暮より船を催して、鱈鰈の類を釣
に出たり、鰈の類は沖遠くて釣ることなれば名立を離
るること八里も十里も出て釣り居たるに ふと[地方|ぢかた]の
空を顧れば名立の方角と見えて一面に赤くなり夥敷火
事と見ゆ、皆々大に驚きすはや我家の焼うせぬらん、
一刻も早く帰るべしといふより、各我一と船を早めて
家に帰りたるに、陸には何のかわりたることもなし、
此近きあたりに火事ありしやと問へど更に其の事なし
といふに、みなみなあやしみながら、まづ〳〵目出た
しなどいひつゝ囲炉裏の側に茶などのみて居たりし
に、時刻はやうやう夜半過る頃なりしが、いづくとも
なく唯一の大なる鉄砲の打たるごとく音聞えしに、其
の跡はいかなりしや知るものなし、其のときうしろの
山二つにわれて海に沈みしとぞおもはる。上名立の家
は一軒も残らず、老小男女牛馬雞犬までも海中のみく
づとなりしに、其の中に唯一人ある家の女房木の枝に
かかりながら波の上に浮みて命たすかりぬ、ありしこ
とども、皆此女の物語にて鉄砲のごとき音せしまでは
覚え居しが其跡は唯夢中の如くにて、海に沈しことも
知らざりしとぞ、誠に不思議なるは初の事の如く赤く
見えしことなり、それゆえに一駅の者ども残らず帰り
集りて死失せしなり、もし此事なくんば男子たるもの
は大方釣にいでたりしことなれば活残るべきに、一つ
所に集めて後崩れたりしは誠に因果とや言ふべき、あ
はれなることなりと語れり、余その後人に聞に、大地
震すべき地は遠方より見れば赤気立のぼりて火事の如
くなるものなりと言へり
とあり、この二つの記録ともに空の赤かったことを記し
ている。地震・山崩れ・津波の発光現象についてはまだ
科学的な解明がなされていないという。
古記録集成
ともあれ当地方を襲った未曾有の震動に
ついて、「古記録集成」は次のように続け
ている。すなわち、
一 名立谷小田島より平谷村迄後辺高山一面に抜崩
れ、東蒲生田村の下岸迄突付しにより川水湛へて一
時に海をなし、依て小田島村人家残らず潰れて男女
即死三十八人怪我人尚多し、亦平谷村民家皆潰れ半潰れて無難の家更になし、殊に寺二ケ寺抜底に消滅す、亦東蒲生田村の内字足崩にても後なる高峯崩れて人家皆潰れ即死怪我人数多く、池田村も後なる山
嶺切れ落漸く家数五軒残り外悉く土中に消もす、此
外村々震動の為に皆潰れ半潰れ或は人馬の即死怪我
人数得るにいとまなし、亦浜名立小泊村壱在所皆潰
れ、殊に当村たるや北越の名を上げたる鳥ケ首に連
続したる高峯村落の後南をたち、北は海原に臨みて
只々往来を跨くのみ、山嶺は一面岩石を重たる如く
懸る高峯一時に山崩れて海中へ突出し無慙なるかな
壱村の男女老若鳥獣とも数丈々の岩石の下に悉く消
滅する事[不便|ふびん]なり
一 仙納徳合の両村も人家大体半潰にて怪我人多し
一 桑取谷の村々は別しての危変にて東吉尾村是も後
辺なる高峯崩れと人家廿軒在居の処漸々壱軒残り外
十九軒は山崩れの底になり人馬皆滅す、西吉尾村に
ても東吉尾の抜崩を突上けたるために皆潰れ或は半
潰れにて人数廿九人即死、此外怪我人夥敷漸々斉京
三太左衛門のみ無難なり、此外下横山、小池の両村
も人家過半潰れて人馬死亡怪我人数多なり、有間川
村にては追立崩れて壱村皆潰れ即死四拾八人、怪我
人等夥敷にて惣じて無難の村更になかりしなると
高田町は当時役家二千九百四拾壱軒の内二千八十
二軒皆潰れ、四百拾四軒半潰れ、四百四拾五軒破損、
町人即死弐百九拾弐人、怪我人数知れず、今町は漸々
町家廿軒破損外不残潰れて即死怪我人知れず凡て頸
城壱郡の中には無難村落更になし
とあり、他に当時名立谷に属していた徳合村の被害状況
を書き留めた史料があるので掲載すると、次のとおりで
ある。
未地震御役所へ書上
(宝暦十一年「御巡見様御案内帳」より)
一潰家五軒 一同壱ヶ所但長四間
一半潰家八拾軒 一用水口壱ケ所同三百四拾間
一社壱ケ所 一同弐ケ所同七拾五間ツヽ
一同壱ケ所半潰 一同弐ケ所同五拾間ツヽ
一寺壱ケ所半潰 一同三ケ所同八拾間ツヽ
一死者七人内四人男三人女右之四ケ所山崩
一怪我十六人内七人男九人女一山崩東西廿丁或三十丁程
一死馬壱疋 奥山ゟ村内へ抜崩田畑山林
一田七町歩 共ニ損失
一苗代五分通損
一道筋壱ケ所長弐百間 (徳合池亀家文書)
(上段一行目下段につづく)
山崩れと津波
これらの文書を見て感ずることは各谷々
がいずれも山崩れによって大きな被害を
出している点である。山間地における地震の被害は、震
動による家屋の崩壊よりも、山が崩れることからの被害
が極めて多いということである。山間の村々は、この山
崩れの崩土の上、又は下に発達する場合が多いから、当
然地震による被害の可能性が多いわけである。そして地
震に伴うこの地方の被害として最も警戒すべきことは、
この山崩れと津波であるが、幸いにもこの時は被害を出
すほどの津波はなかったもようである。もしこの地震に
津波が伴っていたらどうなったか、想像を絶する悲惨な
状態が現出したことであろう。
かくてこの地震による家屋・田畑耕地の被害は膨大と
なり、領主榊原侯より幕府へ上申して金一万三〇〇〇両
の拝借金をなし救恤に当たったが、その割り当ては御城
築へ三〇〇〇両、御家中諸士屋敷へ七〇〇〇両、領地六
万石のうち被災の村々へ二〇〇〇両、高田市中へ一〇〇
○両が貸し付けられた。
在中への二〇〇〇両のうち能生谷二四か村への割り当
ては本潰家一軒に付き金一分と銀六匁二分五厘ずつ、半
潰家一軒に付き銀七匁三分ずつで合計金二六両三分、銀
八匁三厘、ほかに金一三両は右本潰と半潰のほか極難儀
の者へ貸し渡されたのである。そしてこの返済は宝暦二
年から同十一年までの十年賦とされたのであった。
この地震はその後も余震が続いた。『越後頸城郡誌稿』
によれば、
四月二十五日大地震ヨリ五月十日頃迄百余程震、閏
六月中迄毎日四五度ツゝ少々ノ震ヒ有之、夫ヨリ次第
ニ軽ク、七月十一日頃ニハ日々二三度ツゝ、八月中モ
同断ニテ、九月三日暮頃余程ノ地震、十一月六日亥ノ
刻、同八日丑ノ刻両度震シ、翌申年正月二日モ小震アリ
とあるが、長期にわたる震動におびえ切った住民の様子
が想像されるのである。
「古記録」によれば、微震は翌宝暦二年にも度々起こ
ったようだが、作柄は良く、諸物価も安定してまずは安
堵の思いをしたのであった。