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項目 内容
ID J2700615
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/21
和暦 寛延四年四月二十六日
綱文 宝暦元年四月二十六日(一七五一・五・二一)〔高田・越後西部〕
書名 〔頸城村史〕頸城村史編さん委員会編S63・2・5 頸城村発行
本文
[未校訂]寛延地震
寛延四(一七五一)年四月二十五日、夜八ツ
時(午前二時)というから、正確にいえば、
四月二十六日に起きた地震である。直江津今町の記録
(今町会所「地震書留写」『新潟県史史』資料編6)によると、
四月廿五日、夜八ツ時、大地震ニ付、潰家、死人、
其上大地壱・弐尺又は所により五・六尺[計|ばかり]ツヽ相割
れ、水吹出し、井戸水三・四尺ツヽ上へ吹出申候、
町内壱・弐尺水湛、依之、[津|つ]なミの由にて、町中之
者不残砂山へ逃登る。大肝煎は町中へ廻る、諸人取
付、[嘆事|なげくこと]、難尽筆舌候、頸城郡之内、[都|すべ]て出火拾四・
五所相見へ申候、夜明ケ迄[惣|すべ]て震[止|やま]ス、廿六日明時ニ
至、少々人心にも[成候得共|なりそらえども]、居家潰、穀物小売買無
之、尤廿六日昼頃迄ハ食事も不致罷在候之処、時分
柄、入舟[有之|これあり]節故、船々より食相送り申候、兎角時
をあらさす震候ニ付、行末生死之程も[難計|はかりがたく]存候ニ
付、念仏之声のみ、人心地は無之、尚又、左ニ記ス
(後略)
と記されている。諸記録によると、頸城郡が地震の中心
で、被害は頸城一円にわたり、特に西頸城地方が激甚で
あった模様で、「越後大地震記録」(『新潟県史』資料編6)に「名立の
泊り不残海之中へ弐拾丁余つき出シ、人馬皆ながら埋死
申候、其外、くわどり谷之内、西よしを村一ケ村不残理
死」とあり、この地震が一名「名立くずれ」といわれる
ゆえんである。これらの記録を総合すると、頸城郡の被
害は次のとおりである。
高田御家中(高田藩家臣)
一 大潰 九十軒、半潰 五十軒
一 大破 十一軒、小破 四十四軒、無難 六軒
一 長屋大潰 三十二軒、半潰 二十七軒
一 大破 三棟、小破 八棟
一 足軽長屋大潰 六棟
一 死人六十六人  内町宅侍分死人十一人扶持人 死人三十三人
高田(高田町屋)
一 潰家二千八十二軒 一 半潰四百十四軒
一 破損家 四百四十五軒
一 潰土蔵 四十六ケ所
一 死人 二百九十二人 内男百六十人女百三十二人
外 伝馬 二疋落、同怪我馬八疋
御領分(高田藩領)六万石在中、但、今町とも
一 死人 五百五人
一 怪我人 二百六十二人 生死不定
一 死馬 八十五疋 痛馬五十二疋
死馬十二疋(怪我後の死馬か?)
一 潰家 二千九十六軒 半潰三千六十二軒
一 寺 百ヶ所 内四十五ケ所半潰
一 社 二十五ケ所 内十八ケ所半潰
一 堂 十五ケ所 内六ケ所半潰
一 庵 五ケ所 内三ケ所半潰
一 塩屋 百三軒 内八十一軒半潰
一 土蔵 七十一ケ所 内四十一ケ所半潰
一 御蔵 四ケ所 [計|はかり]蔵二ケ所
一 用水江、堰、樋、川筋破損 百六十八ケ所
一 同損亡之村方 八ケ所 外荒川瀬違一ケ所大破
一 樋 十七ケ所 損失之村方四ケ所
一 山抜崩、川欠 四百七十一ケ所
一 水山崩屋敷 二ケ所 山崩林三ケ所
一 橋 五十二ケ所 御高札場三ケ所
富永喜右衛門様御代官所荒井附之分
(頸城郡の内幕府領)
村数 百九ケ所
一 潰家 四百四十五軒 半潰千百四十八軒
一 死人 四百四十四人 死馬二十六疋
田中八兵衛様御代官所真砂附之分
(頸城郡幕府領)
一 潰家 千二百四十軒 半潰七百八十軒
一 死人 百十八人 怪我人 五百四十人
一 死馬 三十五疋 怪我馬 八十一疋
一 焼失家 五軒
設楽忠(長)兵衛様御代官所川浦附之分
(頸城郡幕府領)
一 潰家 千四百五十四軒 半潰 千四百八軒
一 焼失家 二軒
一 潰寺 二十一ケ所
一 御蔵 二十ケ所
一 社家一軒
一 死馬 三十八疋
等と記録されている。寛延四年の「未年万雑帳」(平石家文書)
表3―92 寛延地震後の作夫喰拝借
村名
天ヶ崎新田
坂井〃
福田〃
田中〃
鵜木〃
川袋〃
柿野〃
東又〃
飯田〃
上池田〃
下池田〃
岡田〃
中柳町〃
寺田〃
柳町〃
上柳町〃
下柳町〃
中増田〃
下増田〃
作夫喰願人


40
7
14
4
409
24
11
21
17
26
32
30
10
14
90
15
23
26


43
10
12
6
33
6
17
15
22
20
29
30
20
10
12
74
16
20
25


83
17
26
10
73
15
41
26
43
37
55
62
50
20
26
164
31
43
51
村の
総人数

119
28
32
?93
21
52
36
62
49
72
82
66
23
34
208
37
60
64
作夫喰願人
総人数
×100

69.7
60.7
81.2
―78.4
71.4
78.8
72.2
69.3
75.5
76.3
75.6
75.7
86.9
76.4
78.8
83.7
71.6
79.6
(寛延4年5月「作夫喰願人別書上帳・中増田組」(平石家文書)により作成)
には「四月廿五日夜丑ノ下刻、大地震、民屋悉クつふれ、
死人其数ヲ不知」と記されている。
 頸城一円に大きな被害をもたらしたこの地震直後の五
月、年番・甚兵衛は、作夫喰がなく農業ができない者を
集約し、川浦役所あてに「作夫喰願人別書上帳」を作成
した(表3―92)。
 作夫喰願人は表3―92に見る一九村のほとんどが、そ
の村総人口の七〇㌫を超えている。これらの人々の持高
を人数の最も多い上柳町新田(村高三一三石余)について
述べる。宝暦二(一七五二)年の「五人組高附帳」による
と、村外からの懸持高は二一石余であり、懸持率は約七
㌫と低い。しかし、上柳町新田内の持高構成を見ると(表
3―93)一石以下の農民は二二戸で、約五四㌫と半数を超
えている。
 次に、作夫喰拝借願人のそれぞれの家族数と持高を示
す。
 三三戸(男九〇・女七四・計一六四人)の農民のうち、
持高一〇石以下の者はすべて拝借願人となっており、願
人の最高持高者は、藤左衛門の一四石余である。寛延地
震による被害は、一〇石以上の農民にも大きな影響を与
えたことになろう。
表3―93上柳町新
田持高構成
持高

41~
31~40
21~30
15~20
11~15
5~10
1~4
1以下
無高

戸数
2
1
0
1
5
5
5
11
11
41
(宝暦2年2月「上柳町新田
村五人組高附帳」(平石家文
書)により作成)
表3―94 上柳町新田の作夫喰拝借人の家族数と持高
農民名
七兵衛
藤吉
藤左衛門
重次郎
三左衛門
庄左衛門
権助
源左衛門
坂右衛門
甚四郎
奥右衛門
仲右衛門
又兵衛
四郎左衛門
松右衛門
彦次郎母
定右衛門
家族数


















持高
石斗升合


一四・二二〇三
一・一二〇八
〇・九四七五
〇・六五
一・七六四六


二・六五五五
九・一七五三
〇・〇〇一六
八・八五四六
〇・九四
〇・〇七八二


農民名
曽右衛門
又次右衛門
多兵衛
由右衛門
万太郎
平助
寅松
与左衛門
清助
伊八
惣助
又右衛門
佐五左衛門
次郎右衛門
市左衛門
源八
計(三三戸)
家族数

















一六四
持高
石斗升合


四・五二二八
一一・二四三四

一二・五四〇九
〇・三一九
四・五二一八
〇・四一九一
〇・九二三六
〇・三二五
〇・一四二
一二・三六五七

九・五三三
〇・一四一六
 なお、夫喰米所持者のうち四人が、この地震のため死
亡している。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 946
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
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