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項目 内容
ID J2700510
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1586/01/18
和暦 天正十三年十一月二十九日
綱文 天正十三年十一月二十九日(一五八六・一・一八)〔畿内・東海・東山・北陸諸道〕
書名 〔伊那谷の活断層と地震(第三回・最終回) ―兵庫県南部地震の一周年にあたって―〕松島信幸著「伊那」一九九六年・十二月号伊那史学会発行
本文
[未校訂]天正の巨大地震
 今から約四百年前に、歴史上名高い「天正の巨大地震」
というのがあります。これは天正十三年(一五八六年)に
おきた大地震です。なにしろすごい地震だったことがい
ろいろな事実から推定できます。日本の歴史地震の中で
は、これより大きい地震はないといってもよいでしょう。
 天正地震の被害は非常に広域な地域におよんでいま
す。京都・近江・美濃・尾張・伊勢・飛驒・北陸・中部
におよび、被災面積は史上最大です。しかし、地震の全
貌はよくわかっていません。いわゆる戦国時代ですから
文書による記録がいまひとつ不十分ですから。マグニチ
ュードは七・八と推定されていますが、最近では八以上
であったという見方が有力です。
 震源断層が二つ以上あったとされています。同時多発
型の地震だったと思います。どこかの活断層がガクッと
うごくと、すかさず、満を持していた他の活断層も連動
して動きます。「熊谷家伝記」には天正地震のことを大き
く取り上げています。一日の中に2回も大地震に襲われ
たことが記録されています。また、各地の記録にも続け
て2回の大地震があったとかかれています。地震と同時
に火山の爆発も起きています。白山と焼岳の爆発です。
大きな余震が何日も続いたそうです。熊谷家伝記には、
余震がいっこうに収まらないので、村人が危なくて畑仕
事や山仕事に出られなく、大変困り果てた。野山に出ら
れないまま、一年間も余震が続いたと書かれています。
 坂部では天正地震で山が割れて、そこからお湯が吹き
出しています。それをイタチ水といって、坂部の人たち
は今でも飲み水として使っています。坂部では大地震の
ときに岩が割れて湯が噴き出したことが永享四年(一四
三二年)の地震のときにもあったそうです。坂部学校の下
にある岩下清水、伊勢清水がそれです。伊勢清水は元旦
の日の若水取りに使う神聖な清水として注連縄を張って
ふだんは使っていません。
 また、永享の地震のとき、学校の入り口のところに地
割れできたことが記録されています。この地割れは今は
もう埋めてありますがね。
 天正地震のとき清内路村から阿智村の智里を南北に貫
いている清内路峠断層の一帯で大規模な山崩れが起きて
います。天正地震のとき、恵那山トンネルの中津川口か
ら下呂に向かってのびている阿寺断層が震源断層の一つ
として動いたことがわかってきました。震源地は岐阜県
側ですが、阿寺断層は恵那山トンネルにのびていますか
ら、伊那谷側でも大きな震動が起こって清内路峠断層ぞ
いの山に大規模な滑落が起きたのでしょう。
 清内路峠断層がとおっている横川峠の周辺の谷では、
谷の中が山崩れによって埋まっています。埋没土の中に
は埋もれ木が出土します。寺岡義治さんがヒノキの埋も
れ木を採取して年輪を調ベてもらったところ、ヒノキが
埋没したのは一五八五年の秋から一五八六年の春の間で
あることがわかりました。天正の大地震は一五八六年一
月一八日(天正十三年十一月二九日)ですから、ヒノキの
枯死年代と地震とが合致します。
 園原は歴史的に古い集落です。ところが不思議なこと
に、むかし園原に住んでいた人たちは阿智村の伍和に移
り住んでいます。今の園原に住んでいる人たちは、ずっ
と後になって阿智村から分家して移り住んだ人たちで
す。つまり、園原は四百年か五百年の間、だれも住んで
いなかったのです。何時、どんな理由で園原の人が里へ
下ったのかわかっていないそうです。これは大きな謎で
す。
 清内路峠断層は園原の入口から濃間の富士見台スキー
場ロープウェイターミナルや月川温泉をとおり、浪合村
の蘭平ゴルフ
場・治部坂峠を
通過します。な
ぜか最近開発さ
れた観光地はこ
の断層上に並ん
でいます。
 「天正地震」は
伊那市の西箕輪
でも大きくゆれ
たことが記録さ
れています。西箕
輪の羽広には御射
山社がありまし
た。この本殿が天
正十三年の地震で
壊れてしまったと
書いてあります。
羽広の仲仙寺は御
射山社と関係の深
い寺ですが、今の
建物は三・四百年
前ころに建て直されたものだそうです。最初の寺の位置
は今の位置より高いところにあったようです。残念なこ
とに、寺が壊れたのは何時であるかはっきりしないそう
です。
 有名な古い寺についての見直しが大事だと思います。
その一例ですが、高森町の瑠璃寺は、伊那谷に侵攻した
織田軍によって焼かれたと聞かされてきました。本当な
んでしょうか。確かなことは、四百年くらい前に寺が再
建されていることではないでしょうか。
御射山社一ノ鳥居跡
南箕輪村御子柴字前原(春日街道沿い)に
ある。石碑に記してある文面は掲示板に
書かれている。
一ノ鳥居の礎石
一ノ鳥居跡には礎石が一個だけ残ってい
る。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 928
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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