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項目 内容
ID J2700491
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
0887/08/22
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
0887/08/26
和暦 仁和三年七月三十日
綱文 仁和三年七月三十日(八八七・八・二六)
書名 〔遺跡で発見された地震跡〕西山克己「伊那」一九九六年六月号伊那史学会発行
本文
[未校訂]⑥ 篠ノ井遺跡群(高速車道地点)(文献1・13)(第4
図)(注、図は省略)
 長野市篠ノ井塩崎にある。
 多くが東北東から西南西方向、もしくは西北西から東
南東方向に噴砂を吹き上げた稲妻状の砂脈が走る。太い
もので一〇㎝から十五㎝で細いものは数㎝である。これ
らの砂脈のたちあがりは平安時代の包含層中で途切れ、
平安時代頃にこの噴砂を起こした地震のあったことがわ
かる。
 また、SB7053竪穴住居跡では、幅一〇㎝から十五
㎝程度の砂脈が西北西から東南東方向に走っていた。こ
の住居跡からは東濃産の光ヶ丘型式の灰釉陶器が四点出
土している。
 さらに、「日本紀略」や「類聚三代格」に見られる八八(ママ)八(
仁和(ママ)四)年の信濃国での山崩れや大洪水の記事にみられ
る頃の洪水砂であろう砂が覆土となってこの住居跡を埋
めつくしていた。
 このことにより、この住居が地震の被害によって破棄
されたか、破棄されて間もない頃に地震がこの地をおそ
い、その後に大洪水にみまわれたことがわかる。
 またSB7404竪穴住居跡では、埋土にも砂脈が走る。
この住居跡の床面より皇朝十二銭の一つである永和昌宝
(初鋳八三五年)が出土していることから、この砂脈は八
三五年以降に起きたものということになる。
 以上のことから、篠ノ井遣跡群で見られる噴砂跡は、
八三五年以降九世紀末頃(八八八年頃)の間に起きた地震
によるものであることがわかるのである。(註1)
註1 一九九四年・一九九五年度速報展より 長野県埋蔵
文化財センター主催の展示会での篠ノ井遺跡群高速
道路地点での展示説明より 一九九六年二月十七日
より三月三日
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 921
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村

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