[未校訂]⑥ 篠ノ井遺跡群(高速車道地点)(文献1・13)(第4
図)(注、図は省略)
長野市篠ノ井塩崎にある。
多くが東北東から西南西方向、もしくは西北西から東
南東方向に噴砂を吹き上げた稲妻状の砂脈が走る。太い
もので一〇㎝から十五㎝で細いものは数㎝である。これ
らの砂脈のたちあがりは平安時代の包含層中で途切れ、
平安時代頃にこの噴砂を起こした地震のあったことがわ
かる。
また、SB7053竪穴住居跡では、幅一〇㎝から十五
㎝程度の砂脈が西北西から東南東方向に走っていた。こ
の住居跡からは東濃産の光ヶ丘型式の灰釉陶器が四点出
土している。
さらに、「日本紀略」や「類聚三代格」に見られる八八(ママ)八(
仁和(ママ)四)年の信濃国での山崩れや大洪水の記事にみられ
る頃の洪水砂であろう砂が覆土となってこの住居跡を埋
めつくしていた。
このことにより、この住居が地震の被害によって破棄
されたか、破棄されて間もない頃に地震がこの地をおそ
い、その後に大洪水にみまわれたことがわかる。
またSB7404竪穴住居跡では、埋土にも砂脈が走る。
この住居跡の床面より皇朝十二銭の一つである永和昌宝
(初鋳八三五年)が出土していることから、この砂脈は八
三五年以降に起きたものということになる。
以上のことから、篠ノ井遣跡群で見られる噴砂跡は、
八三五年以降九世紀末頃(八八八年頃)の間に起きた地震
によるものであることがわかるのである。(註1)
註1 一九九四年・一九九五年度速報展より 長野県埋蔵
文化財センター主催の展示会での篠ノ井遺跡群高速
道路地点での展示説明より 一九九六年二月十七日
より三月三日