[未校訂](1) 大震災の概要(省略)
(2) 旧村別震災状況
ア 丸村
○被害の状況
丸村に於いては土地の隆起や陥没等は少なく、珠師ケ
谷区に於いて約二反歩が一尺以上隆起したところがあ
り、陥没は丸山川沿岸に連る地帯に多少の陥没が生じた。
また水田にも無数の亀裂が生じ甚だしきは五寸幅位のと
ころもあった。道路も幅五、六寸の大亀裂を生じて、車
馬の通行は不可能であったし、丸小学校の校庭も四、五
寸の亀裂を生じた。また、大井・珠師ケ谷・宮下等の山
間地では崖崩れがあった。
人畜に対する被害は比較的少なく、死亡者六人・負傷
者一〇人で、家畜の被害はなかった。
家屋の被害は、大井地区には無かったが、その外の地
区に於いて次表の通りで、特に甚だしかったのは、丸本
郷区及び前田区でほとんど全滅であった。国宝等を宝蔵
する名刹石堂寺の堂宇の柱が約二尺位礎石を離れ一〇度
位傾斜したが、倒潰の難をのがれた。
丸村の被害状況
建物
住家
非住家
校舎
社寺
役場
計
全潰
一六五棟
一九三
二
九
一三七〇
半潰
九五棟
二〇二
二
八
〇
三〇七
水田には亀裂を生じたために、早生稲以外は根や茎が
傷められて結実上の大打撃を受け農家経済に影響を与え
た。
丸小学佼に於いては第二学期の始業日で、午前一〇時
半頃には児童生徒は下校したので子供の事故はなかっ
た。地震発生と共に南側の新校舎(大正一一年七月竣工)
と西側の旧校舎が同時に倒潰したが、職員の死傷者はな
かった。北側校舎(大正七年建築)と東側校舎は半潰であ
った。このような状熊の中で職員は危険を[冒|おか]して、東校
舎より御真影を無事に運び出して、宮下三幣高一訓導宅
へ奉遷した。また、役場庁舎一棟が全潰したが、校庭に
居合せた人々と共に役場吏員や学校職員が協力して、半
潰の校舎に支柱を建てるなどして保護したので、辛うじ
て二棟の校舎は倒潰を免かれた。
交通上の被害は県道に亀裂を生じ車馬の通行は困難と
なり、丸山川の架橋の川沢橋と前田橋及び御霊橋は墜落
して交通は途絶えた。
丸郵便局の郵便や電信も一週間位不通となったようで
ある。
宮下岩波盛の手記による大地震記にその状況が記録さ
れているので、その中の一部を抜粋すれば次のとおりで
ある。
「同日午前三時頃小雨降来リ同九時頃快晴ニナリ、同十
一時五十分頃突然震動シ来リ、瞬間ニ人ノ歩行ヲ絶タ
レ皆匍匐シテ難ヲ凌キタルモノ多シ、莫越山神社本殿
半潰、幣殿拝殿参籠舎全潰、石灯籠中真ヨリ折倒シ、
石ノ鳥居ハ棟石及貫石等ハ折落シテ見ル蔭モ是レナ
シ。……間宮徳蔵ハ家屋倒潰ノ節主人不幸ニシテ遂ニ
圧死セラル。……薬師堂下ノ田川土堤ノ方亀裂シ、地
形高低ニナリ其ノ割レ筋川崎ノ大川端ニ至ル。……重
震ノ地方ノ人ハ該夜ヨリ野宿セリ、地方々々ニテ各潰
家ヲ棄テ遠ク安全ナル土盤ニ居ルコト数日ナリト雖
モ、財宝ヲムサボルモノナク只管生命保護ニ重キヲ置
クノミナリ。……震動軽重ノ境地ハ宮下[上竿尺|かみかんじゃく]ナリ、
宮川橋ヨリ北壱丁位ノ所ヨリ上方ハ微震ニテ、宮川橋
附近ハ激震、夫ヨリ南方ニ尤甚タ敷県道ハ亀裂シ地下
ヨリ青泥水噴出シテモノニ譬フヘキ様ナク、宮川橋ハ
正ニ陥落セントセシモ両端土場ユルミ不幸中ノ幸ヲ得
タリ。家屋ノ震動状況ハ筆紙ニ書シ難シト雖モ、貧弱
ナル家屋ハ割合ニ難ヲノカレシモノ多シ、堅良高壮ナ
ル家屋ハ全滅ト云フモ敢テ憚カラス。」
○大震記念碑
前田大宮神社境内に記念碑が建立されているが、建立
年月や建立者も不明である。丸村に於いても前田区は激
甚であって三七戸の内二五戸全潰、四戸半潰、負傷者五
人とある。(『史料集』金石文三五参照)
また石神社にも記念碑が建立されており、全戸数一九
戸、全潰一二戸、半潰七戸とある。
イ 豊田村
○被害の状況
豊田村に於いては、加茂[御代|みよ]の水田二〇町歩余の陥没
と、西原矢田の八町歩が陥没したのが大きな農地災害で、
その外数カ所に小規模な隆起や陥没があった。また岩糸
根切及び谷頭の両溜池が、水深三尺以上減水し灌漑用水
に不足を生じた。
人畜の被害は、死亡者三一人、内男一二人、女一九人。
負傷者五二人、内重傷者一九人、軽傷者三三人、家畜の
圧死七頭であった。
建物等については公営建物は全部、民家建物は約八割
が全潰したが、幸いに小戸区に於いては被害は少かった。
被害の状況は次ぎのとおりである。
住宅全潰 三八一戸 一万五二四〇坪
半潰 三七戸 一四八〇坪
公署全潰 一棟 四八坪
学校全潰 七棟 四六六坪
神社全漬 四棟 一三〇坪
寺院全焼 一棟 一三二坪
寺院全潰 八棟 二九〇坪
その他全潰 二棟 五九坪
役場庁舎及び附属建物と小学校は全潰した。特に小学
校に於いては、高等料及び補習学校女生徒の一部が校舎
の下敷となった。役場史員や学校職員が必死の救助に努
め、警鐘を乱打して救援を求め近隣の人達の応援を得て、
生徒を救い出したが、高等科一年と補習科一年の女生徒
二名が絶命し、数名の負傷者を出した。また御真影も発
掘して安全な場所へ奉遷した。
寺院の全焼は本村巨刹の加茂日運寺が、本堂の灯明よ
り引火して大加藍を全焼した。
本村唯一の産業の水稲は耕地の変貌によって一〇町歩
余の作付不能田ができた。道路は割目を生じ、丸山川及
び温石川に架設された橋梁は全部破壊されて、交通上多
大の不便を来した。
また、養蚕農家四九戸のうち四二戸が全潰し、七戸が
半潰で大打撃を受けた。
岩糸庄司友衛氏所有の柱時計の裏面に、大地震の状況
が記載されているので、その一部を紹介する。この時計
は庄司友憲(友衛氏の父)が、その年八月に東京服部時計
店より金三〇円で購入したものである。抜粋すれば、次
のとおりである。
「是ノ年九月一日午前十一時五十八分地劇震、震源為相
模灘震幅水平四寸強、安房中央、相模、横浜東京最蒙
惨害、本村五百戸中三百七十戸住家倒潰、死者三十一、
於者根切部落七兵衛、谷、六郎平、伴右衛門、東、五
戸母屋倒潰、半潰喜左衛門、安平、徳平之三也、自一
日至十五日寺谷地蔵様前ニテ露営シ、塩丸飯稀ニ味噌
汁アリ思フダニ慄然タリ」
ウ 千歳村
○被害の状況
千歳村は久保区及び川合区を含む旧千歳村であるが、
『安房震災誌』によれば「人々は慌てふためいて、屋外
に飛び出した頃には建物はさながら怒涛にもてあそばる
大地震の爪あと(加茂 亀田卓氏提供)
る木の葉のようであった。またたく間に壁は崩れ柱は挫
け濛々と土煙は天地を閉ぢこめてしまった。此の瞬間に
あらゆる建築物は破壊され……」とあり、その凄惨さを
物語っている。本村にも一、二メートル位の隆起はあっ
たし、各所に大亀裂を生じ、村道安馬谷和田と川合千田
ケ谷に陥没があった。また、白子海岸の海底が隆起して、
今まで水中にかくれていた岩根が水上に姿を出したとこ
ろがあった。また白子漁港では、以前は水が深く漁船を
陸近くに繫留していたところが、地震後は全くの干潟と
なった。
大震災の時の様子について、安馬谷の古老座間かつ氏
は次のように語ってくれた。
「私は当時二三歳でしたが、地震だということで玄関か
ら外へ飛び出したけれども、千鳥足で歩けないので這
って近くの細葉の木(槙)につかまって、ふと後を振り
返ったらもう家は潰れていました。僅かの時間のこと
で逃げ遅れつぶされた人もたくさんいましたし、死人
も出たと聞きました。家の庭には大きなコンクリート
の池がありまして、いつも水を満々とたたえていまし
たが、割れて水が全部無くなってしまいました。丁度
お昼時でしたので近所の家で母さんが茄子をゆでてい
たところへ地震で、たまげて火を消すことも飛び出す
こともできないで、そのまま家が潰れて屋根の下敷と
なり、呼んでも返事がなく近所の人がみんなで引張り
出しましたが、その母さんは腰を痛めていましたので、
戸板の上に寝かせておきました。怪我人ができても医
者を頼むことはできませんでした。火事の方は昔は風
呂場が外にありまして、幸い水が残っていましたから
その水をかけて消し止めることができました。
三嶋からこの辺はみんな潰れてしまいましたので、
差当り住む家がなく、裏の竹やぶに莚を敷いて過し、
やがて掘建小屋を建てて二、三軒で共同生活をしまし
た。私共は一二軒の台でしたので、男達は倒れた家の
屋根あぶしを片っぱしからやり、番小屋のようなもの
を建てて余程何日も生活したと思います。私の家は大
きな家でしたので気の毒で、一番最後にあぶしてもら
いました。
丁度秋の収穫前でしたからどこの家にも食べ物はな
くて、困りました。しかし、三日位前に古川の「きえ
むどん」の所に越後屋さんの精米所がありまして、家
で米摺りに出してありましたから、台の人達が精米を
取ってきてくれましたので、みんなで食べてしのいだ
ものです。また朝鮮人が暴れてくるというので大騒ぎ
になり、ずい分心配しましたがデマでした。」
本村に於ける人畜の被害は、死亡者三九人(男一三人、
女二六人)、負傷者一三人(男九人、女四人)、家畜の圧死
二頭であった。
建物の被害は次のとおりであった。(当時の総世帯数七
一二戸)
住家全潰 五三八戸 同上半潰 六四戸
非住家全潰 八六二棟 同上半潰 三五八棟
住家焼失 一戸
役場庁舎は半潰で使用不能となり役場前の信用組合倉
庫に仮事務所を設けて業務を行った。隔離病舎事務所、
物品交換所等は残った。寺社では、三嶋神社、八幡神社、
久保神社、安房大杉神社は全潰し、川合の愛宕神社は半
潰で、金剛院、雲龍寺、積蔵院及び名刹真野寺は何れも
全潰した。しかし、役場の書類機器等や寺社の文書社寺
宝の損傷はほとんど無かった。
小学校では始業式を終えて全員下校の後で、児童生徒
や教職員の死傷者は無かったが、校舎は全部倒潰し小使
室の一部が旧状を残すのみであった。御真影は差当り産
業組合倉庫内に保管して、後で峰の小沢福松宅が倒潰し
なかったので移し、高梨み津訓導が警護にあたり、一一
日に産業組合倉庫に奉安し、更に一五日には株式会社房
州銀行(南三原村海発古川)の金庫内に奉安した。
古川銀行は倒潰したが、直ちに復旧して営業を開始し
て金融面での需要に応じた。また千歳郵便局は倒潰を免
かれたが、電信電話は不通となり郵便物も一〇日間位不
通であった。
橋梁の陥落は下川橋と久保に三カ所あったが、青年団
や集落民の努力によって応急措置が講じられた。
耕地の被害は亀裂を生じた所はあったが、損害は少な
かった。水産関係もさしたる被害は見受けられなかった
が、唯海藻については海底が隆起したために、暫らくの
間海藻が繁殖したということである。また、本村よりの
出漁者は少数であったので、遭難等の被害はなかった。