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項目 内容
ID J2700421
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及びその周辺〕
書名 〔近世女たちの災害見聞録〕柴 桂子「江戸期おんな考」H2・10・20 桂書房発行所収
本文
[未校訂]四 水戸藩奥女中・西宮秀と安政大地震の見聞録
 安政二年十月二日(太陽暦一八五五年十一月十一日)、
江戸に起こった大地震はマグニチュード6・9で直下型
だったと報告されている。地震そのものの被害に加えて
火災による被害が大きかったことが多くの記録にある。
このときの被害の様子や庶民たちの苦しみ哀しみは「安
政見聞録(24)』や『安政見聞誌(25)』などに詳しい。
 西宮秀は二十二歳の時、江戸小石川の水戸藩邸におい
て、この大地震を経験し、大名屋敷の被害の様子を『落
葉の日記(26)』の中に書き残している。
 安政二年十月二日の夜十時頃水戸家九代藩主斉昭の第
九子鉄千代が誕生したすぐ後に大地震が起こった。秀は
丁度風呂からあがるところであった。一ゆりで二つの風
呂もひっくり返ってしまった。襖や燭台も倒れ、騒音に
驚いた狆が逃げ出しては大変と、秀は急ぎだき抱えて御
廉中様(斉昭夫人)のお側へ連れて行く。
御外庭へ出んとすれと御門あかず爰にて又ゆり返し
来る是はとてもにげられずとかくこを致し
候所まづしつまりぬ此間に外へ出んとすれど
御へいは川の上にたおれ其上を渡りてやう〳〵出しか又御門がこな〳〵にこわれておりぬ
此御門は御馬場より外御庭へ出る御門なり
そこを越へてやう〳〵廣き御庭に出し
部屋へ避難した斉昭や御廉中様・姫君らの無事を確認し
た秀は、再び御殿へ引き返し後片付けをする。手あぶり
や火鉢など火の元の危ないものはすべて池の中へ投げ込
む。掛け物や置物・寝所の品などは長持ちへ入れ、小姓
の手助けで長持ちの棒で雨戸を破り、庭へ運び出す。大
切な品を手にもって広庭へ出て行った頃には、江戸の町
の十八か所に火の手が上がり、昼間薄暗い所も、昼より
明るくなっていた。そこへ斉昭の側用人の藤田東湖と戸
田蓬軒の圧死の報が入って来る。
 その夜、秀の家も潰されてしまい大騒ぎであった。秀
は後で知ったのだが、父親は斉昭の側に仕えて家を留守
にしており、弟や妹は床に入り、母親が小用に行くため
縁側に出たとたんに地震が起こり、縁の下敷きになって
しまった。母親はやっとはい出して子供たちを探した所、
弟は潰れた壁や柱の下から顔を出し、母親を安心させた
が、妹栗は家の下敷きとなっていた。のこぎりで杉戸を
壊し、何とか引きずり出した。栗はまだ暖かみが残って
いたのて、方々の医者を探したけれど、どこの医者も留
守で、そうこうしているうちに、栗の体は段々冷えて行
き、哀れにも栗は十二歳の命を敬らしてしまった。遣体
は寺へ葬る手統きのできるまで長持へ入れ、崩れ残った
中間部屋へ安置しておいた。
 現行暦でいえば、十一月十一日にあたるこの夜の寒さ
は一入であった。
直に御庭にて御膳所は御かゆ抔こし
らい御前方へも差上私共も戴く其夜は
御茶屋にて御夜明しあくる日は直に御柴の戸
柱を立て家根や廻りはむしろにて土間へ
おしょうぎ二つならべまわりへ御灯燭を
提ケて其御しょうきのまわりへむしろを
しきて私共はすわり居候事下よりした〳〵と
ひへて其寒い事いはん方なし
災害は身分に関係無く同じように被害をもたらし、苦労
を共にした。
 秀は幼くして生母をなくした妹の母親替わりを勤めた
時期もあり、妹を亡くした寂しさは格別であっただろう。
宿下がりの折に、三年は忘れられなかったと述べている。
 縦罫の入りの紙に書かれた地震の記録部分は、一行に
十七文字前後で七丁程の短いものである。地震の際、秀
がいち速く心掛けたのは、狆を大事に抱え込んで、お側
へ連れて行ったことであり「よくにがさず連れて参った」
と褒め言葉を貰ったが、当時はこうした愛玩犬が奥向き
では大いに持て囃されていた事例としてもおもしろい。
また、御殿勤めの者にとっては家族の安否より、主人の
側にいることのほうが大切であり、父親宣明も秀も御殿
を一歩も離れず、御殿の道具運びに全力を尽くした。こ
のことは御殿勤めをしている人に限らず、主人をもった
人にとっては皆がそうであった様で、秀の家の中間が親
の病気で暇を取って水戸へ向い、地震当日は取手に泊ま
っていたが、「これは大変」と、水戸へ行くより江戸の主
人のところへ引っ返して、秀の母親の元で地震の後始末
をして大喜びされており、親兄弟よりも主人の方に尽く
した様子が知れる。
(24) 全三冊 服部保徳 安政三年(一八五六)
(25) 全三冊 仮名垣魯文 安政三年
国語訳として荒川秀俊編『実録大江戸破滅の日』(教育
社 昭和五七年)がある。
(26) 『落葉の日記』は西宮秀の曾孫故二見水亜子氏の所蔵
していたものを国文学者の北小路建氏がコピーされ、
それを北小路氏のご好意によって拝借した。
 北小路健「水戸藩奥女中の日記」 新資料「落葉の
日記」についても参照した。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 756
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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