[未校訂]安政二年の大地震
安政二年(一八五五)十月二日夜十時頃、江
戸で大地震がおこった。。この地震はいわゆ
る「直下型地震」で、その震源は江戸直下にあったと推
定される。江戸町奉行支配下の死者は三八九五人、武家
に関する分を合わせると、震死者の総数は約七〇〇〇人
から一〇〇〇〇人であろうという(武者金吉編『日本地震
史料』)。『理科年表』によると、マグニチュードは六・九
であった。
青柳村の「武井家記録」によると、「当埼玉郡村々、当
辺ハ土蔵屋根落候計、怪我人ハ適々御座候へ共、死人は
無之候」とあるので、市域では怪我人程度で死人はなか
ったといえる(近世2・P593)。また、除堀村では黒沼笠
原用水路の関枠が地震により大破したという記録もみら
れる(近世1・一―138)。
江戸から一二里離れた久喜市域の被害は大きくなかっ
たが、市域を支配していた大名や旗本は、江戸屋敷に居
住していたのでその被害は甚大であった。
市域の栗原村、江面村、太田袋村、除堀村は、徳川御
三卿の一つである一橋家の支配をうけていた。一橋家の
記録によると、江戸での動揺や修復について次のように
記している。「十月三日―昨二日夜四時過、殊の外の地震
あり、住居向破損。四日―此度の地震により勘定所大破。
五日―地震につき、当年中本丸月竝の礼、玄猪の祝儀を
行わざる旨令せらるるにより、邸にてもこれに準ず。十
六日―邸向惣體(総体)修復中、請負人より邸臣各個に建築資材
を買取り、又は他方へ世話するを禁ず。十七日、用人見
習村山総太郎に奥向表向惣體役御用を命ず。二十七日―
慶喜幕府の許可を得て、地震見舞のため小石川水戸邸を
訪ふ。」(辻達也編『新稿一橋徳川家記』)詳細な被害のよ
うすはわからないが、一橋家の江戸邸の修復御用に用人
見習の村山総太郎が任命され、支配下村々へもその負担
が課せられた。除堀村には「安政三年地震ニ付御役所様
献金上納出金帳」が残されており、それによると嘉右衛
門の金三両を最高に四八名が計二〇両の献納金を一橋家
に上納している(近世1・一―141)。