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項目 内容
ID J2700397
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及びその周辺〕
書名 〔久喜市史 資料編Ⅲ 近世2〕久喜市史編さん室H2・・3・30 久喜市発行
本文
[未校訂](武井家記録)○同市北青柳
安政大地震
一安政二卯年十月夜四ツ時頃関東大地震、就中江戸ハ強
く 御城御本丸西丸石垣崩し、焼失ハ無之候へ共怪
我人死人多分之由、丸ノ内御大名方潰れ、或ハ焼失い
たし人馬死失幾千万といふ数を知らす、町家猶又大地
震家内中死失焼失之過半、中ニも新吉原遊女中ニ而焼失
死人弐千余人と申事、本庄(所)深川辺別して大地震、前代
未聞死人弐拾余万人といふ風聞
一当埼玉郡村〻、当辺ハ土蔵屋根壁落候計、怪我人ハ適
〻御座候へ共死人ハ無之候
(安政二年の大地震)
 前年十一月四日東海道方面に大地震(P592)があ
り、死者六〇〇名、翌日南海道にも発生、死者三〇
〇〇名を数えたという。
 安政二年(一八五五)十月二日夜十時頃江戸大地
震、圧死・焼死者は七〇〇〇名を越えるという被害
甚大であった。震源地はそれぞれ、遠州灘、土佐沖、
江戸川下流といわれる。本資料にも江戸の被害のよ
うすや埼玉郡内の状況について記されている。
一堀田備中守殿是迄溜リ之間詰格ニ候処、地震之翌三日
(30)御奉書、九日御登城御老中御上座被蒙仰候
右十月二日地震江戸の死人大凡弐拾余万人と申、怪我
人ハ数知らす、物持ゟ数多施行、御公義より御救小屋
七ケ所施行あり
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 726
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 埼玉
市区町村 久喜【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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