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項目 内容
ID J2700224
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔近来年代記 (下)〕○大阪「大阪市史史料第二輯」大阪市史編纂所編S55・10・25 大阪市史料調査会
本文
[未校訂]○大地震之事
六月十四日夜九ッ時すぎニ大地震ゆり、家めり〳〵とう
ごき、寝入ノ時刻なれどみなをき、うらへ行表へ行、う
ろ〳〵と致しけるうち、追々つゞいてゆりけるによって、
みな〳〵表へ出、夜を明しける。翌十五日朝方ニ又々大ニ
ゆりけるによって、此日ハ一日商売・諸職共ニ相休ミに
て、又候大成がゆると云て船へ乗り、浜辺又ハ明地など
へ畳をひきて出て居る人々多し。西横堀石とうろうハみ
なこけ、瀬戸物町皿多くわれ、土蔵などひヾわわれ、家
ゆがみ、北御堂内白書院打くづれ候故二日間御門あかず。
其そうどう云計りなし。翌十五、六とハ一向さひしく、
夜ハふろやも相休ミ、火之廻りはけしく、真ニ御停止如
く也。
○南都大荒之事
六月十五日明方之地震大ニして、家多く崩事数多し。南
都春日社ノとうろう惣くづれ、興福寺ノ塀うね〳〵ニて、
諸寺々ノ塀こと〳〵くこけ、元興寺ノ塔ノ上へ一重われ
をち、又祢宜町・木辻辺末々町多くくつれ、其難渋云計
りなし。凡死人百余人、けが人数多し。
○同諸方震動之事
和州郡山柳町壱・弐丁目家多く崩れ、人死百人計り、け
が人多し。同古市惣こけ、池われ水あぶれ、死人数百人
余。城州木津大半崩れ、其辺村々大ニそんず。伊賀ノ上
野大荒、大崩ニして人死多し。勢州四日市大崩ノ上大火
事なり。其外諸々荒云計りなき事共也。
○地震之歌之事
ゆるむともよもやぬけまじ要石
鹿嶋の神のあらんかきりハ
右之御歌京都大内家ゟ出しニよって、是を家棟へ書置れ
バ死人そんす事なしト云へり。是ニて彼歌を紙ニ書し、
わけニくゝり尊敬すなり。又或人ノ狂歌ニ曰也。
大変を泰平ニゆする世直らて
国も遊たり家もゆうたり
○越前福井大火之事
六月十三日夜ゟ十四日四ッ時ニ火鎮り、城下塩町・かじ
や町辺ゟ火出、凡町数弐百町、寺院百ケ寺、両本願寺掛
所残らす、近在五ヶ村程焼。又翌十四日夜ゟ大地震ニて
残る家崩、九十九棟落。此度第一ノ大荒なり。
○六月諸神事之事
難波祭り たいがく有と太鼓なし
八幡祭り 何もなし
御霊祭り 宮付外なし
高津祭り 何もなし
稲荷祭り 右同断
座摩祭り 地車淡路町壱丁目但し御渡り大雨なり
天神祭り 地車 六番
生玉祭り 同 壱番
住吉祭り 例年通りなり
但し両日なから晴天ニして賑し事云計りなし。殊ニ肥後
中仕ゟ大のほり・ちゃうちん廿張出来、大はつみける。
当年ハ地震ノうはさ取〳〵ニして、一向祭りも人気悪く
甚さひしかりけり。
○御津八幡宮御千度之事
六月廿二、三日比ゟ晦日すきまて毎日七ッ時ゟ相はしめ、
暮すきニて相しまい也。此度諸方地震ニて大荒有。当所ニ
てハ大ニなやすく候故、祝とし、又は国家安全為御千度
有。殊ニ嶋ノ内一等申合、毎夜〳〵壱町・二町と組合、
高はりノちゃうちんをたて花やかに仕立、又ハそろへノ
小ちゃうちんニて男女ノ子供美麗ニ仕立、男は女ノ姿ニな
り、いろ〳〵様々ノゐふう成姿ニやつし、をどり廻り
〳〵、其はづむ事云計りなし。是ニて追々後日ニ至るほ
ど大はづみなり。殊ニ八月朔日・二日ハ、宗右衛門町・
久左衛門町ニして役者など多くおどり出、是ニ依て諸方
大ひゃうばんニして、其賑ひ云計なし。是ニて地震うは
さもやみニけり。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 453
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 大阪
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