Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2700187
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1853/03/11
和暦 嘉永六年二月二日
綱文 嘉永六年二月二日(一八五三・三・一一)〔小田原〕
書名 〔開成町史研究 8〕開成町文化財保護委員会編H6・3 開成町教育委員会発行
本文
[未校訂]神奈川県西部地震への関心と対応 1
―嘉永地震の記録を中心に―
諸星光
(前略)
○嘉永地震の被害
 一八五三年嘉永六年に起きた地震は、天明地震と同じ
ように独立タイプの中規模地震であった。震度6の範囲
は、小田原近辺に限られている。小田原の震害は、一七
八二年の天明地震よりはひどかったのであるが、その被
害を具体的に記すことにする。
(一) 開成町関係の被害
 本町関係の震害記録は、宮ノ臺村(草柳才助氏所蔵文
書)及び、下吉田島村(二宮尊徳全集九巻収録書翰)の二点
があり、金井島村(瀬戸マサ氏所蔵文書)の記録は一部の
みで、大部分が欠落のため参考にできないことは、誠に
残念である。
宮ノ台 草柳才助氏 所蔵文書
嘉永六癸丑年二月二日昼四ツ時少々過
大地震村方大破小破之分書上下帳
一、本家三間[梁下家|ばり げや]三尺 清蔵
桁行六間 下家三尺 小破
馬屋 弐間 小破
三間
下屋九尺弐間 小破
一、本家 弐間半梁 三尺下家 傳右衛門
七間 大半潰
板蔵 弐間 小破
三間半
馬屋九尺 小破
三間半
一、本家 三間梁 壱間下屋 百姓代仁左衛門
桁行 七間半 下屋三尺 小破
板蔵 馬屋木小屋 無事
下家弐間 小破
三間
一、本家 弐間半梁 六尺下屋 平右衛門
桁行 五間半 三尺下屋 大半潰
馬屋 弐間 本潰
四間
下屋 九尺 弐間 本潰
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 長吉
六間半 桁行 三尺下屋 大半潰
馬屋弐間 小破
四間
灰小屋 小破
一、本家 三間梁 六尺下屋 善兵衛
七間桁行三尺下屋 半潰
馬屋 [雪隠|せっちん] 弐間 小破
三間
弐間 五間
木小家弐間 同
三間半
一、本家 弐間梁 九尺下屋 源兵衛
桁行五間半 四尺下屋 大半潰
馬屋 弐間 無事
四間
下屋五尺間弐間 本潰
三間
一、本家弐間半梁三尺下屋 傳七
桁行 五間半 三尺下屋 大半潰
馬屋 弐間 本潰
三間
雪隠五尺間弐間 小破
三間
一、本家 弐間梁 土作吉
三間 桁行 本潰
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 常五郎
五間半 桁行(ママ)尺下屋 大半潰
下屋 九尺 小破
弐間
一、本家 弐間梁 三尺下屋 六郎兵衛
桁行 六間 三尺下屋 大半潰
灰小家九尺 小破
弐間
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 文蔵
桁行五間東西三尺下屋 大半潰
[厩掘立|うまや ほったて]九尺弐間 小破
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 民蔵
桁行 六間半 三尺下屋 本潰
灰小家弐間 本潰
三間
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 松五郎
桁行六間 三尺下屋 本潰
灰小家 九尺 同断
弐間
一、本家 弐間梁 三尺下屋 文吉
桁行 三間 本潰
厩 四間桁行 小破
弐間 梁
灰屋
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 妻吉
桁行 六間三尺 下屋 大半潰
灰屋
一、本家 弐間梁 三尺下屋 忠兵衛
桁行 三間半 三尺 東西下屋
大半潰
灰屋
一、本家 弐間梁 三尺下屋 粂治
本潰
厩 九尺弐間 本潰
灰屋 壱間九尺 堀立 小破
一、本家 弐間梁 九尺下屋 喜兵衛
桁行 四間半 三尺下屋 本潰
厩 弐間三間 小破
灰屋九尺弐間三尺 小破
一、本家 弐間半梁 六尺下屋 庄蔵
桁行 六間半 三尺下屋 大半潰
厩 弐間 大半潰
五間半
灰屋 五尺間 弐間三間
一、本家 弐間半 三尺下屋 角右衛門
本潰
灰屋 堀立
一、本家 三間梁 壱間下屋 嘉右衛門
桁行七間三尺下屋 半潰
厩 弐間 梁
六間 物置共
灰小屋弐間三間 半潰
一、本家 三間梁 甚左衛門
桁行七間 下屋三尺 半潰
灰小屋 五尺 九尺 本潰
一、本家 弐間半梁 下屋六尺 利七
桁行七間下屋三尺 本潰
厩物置共 弐間
六間
灰小屋 五尺間弐間 半潰
三間
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 宇兵衛
桁行 七間 三尺下屋 本潰
厩 弐間 本潰
四間
灰小屋 弐間 本潰
弐間半
一、本家 弐間梁 三尺下屋 徳兵衛
桁行五間三尺下屋 本潰
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 助太夫
桁行六間下屋三尺 本潰
灰小屋 九尺 本潰
六尺
一、本家 弐間梁 三尺下屋 庄右衛門
桁行四間下屋三尺 本潰
灰小屋 四尺 〃
六尺
一、本家 弐間梁 三尺下屋 藤五郎
桁行 五間 三尺下屋
厩 五尺間 弐間 大半潰
三間
一、本家 三間梁 三尺下屋 直右衛門
桁行 七間 下屋三尺 大半潰
厩 五尺間 弐問 大半潰
四間
灰小屋 弐間 大半潰
三間
一、本家 弐間梁 三尺下屋 利兵衛
桁行四間三尺下屋 本潰
灰小屋 五尺 本潰
六尺
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 左内
桁行 七間 三尺下屋 本潰
神前 九尺
弐間
厩 五尺間 弐間
三間
灰小屋 壱間 本潰
壱間
一、本家 弐間梁 四尺下屋 妥女
桁行 四間 本潰
灰小屋 五尺
六尺
一、本家 弐間半梁 勇蔵
桁行六間四間ニ弐間曲家 大半潰
板倉 弐間
三間
厩 弐間 潰
三間
灰小屋 九尺
六尺
一、本家 弐間 藤兵衛後家
三間 本潰
灰小屋 九尺
弐間
一、本家 弐間梁 三尺下屋 定右衛門
桁行 弐間 下屋三尺 本潰
一、本家 弐間梁 三尺下屋 孫右衛門
桁行三間 本潰
灰小屋 六尺
九尺
一、本家 三間梁 三尺下屋 源蔵
桁行 七間 三尺下屋 本潰
厩 弐間 四間
灰小屋 弐間三間 本潰
一、本家 三間半梁 三尺下屋 勘右衛門
桁行七間 三尺下屋 大半潰
厩 弐間 五間三尺 大半潰
灰小屋 弐間 三間 大半潰
一、本家 三間梁 三尺下屋 金兵衛
桁行六間半 三尺下屋 本潰
灰小屋 五尺間 弐間 本潰
三間
一、本家 弐間梁 三尺下屋 弥右衛門
桁行 四間下屋三尺 本潰
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 忠蔵
桁行 四間 三尺下屋 本潰
灰小屋 六尺
八尺
一、本家 三間梁 三尺下屋 源蔵
桁行 七間半 三尺下屋 本潰
厩 弐間 本潰
四間
灰小屋 弐間 本潰
三間
一、本家 弐間梁 三尺下屋 瀧吉
桁行 四間 六尺下屋 本潰
灰小屋 弐間 半潰
三間
一、本家 四間梁 三尺下屋 勘右衛門
桁行 七間半 三尺下屋 大半潰
板倉 弐間
弐間
厩 弐間
五間
灰小屋 弐間 三間 半潰
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 繁蔵
桁行 四間 三尺下屋 本潰
厩 弐間 本潰
四間
灰小屋六尺 本潰
九尺
一、本家三間梁三尺下屋 甚内
桁行七間三尺下屋 本潰
厩 弐間 本漬
四間
灰小家 弐間 本潰
三間
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 竹治
桁行四間半下屋三尺 本潰
厩 五尺間弐間 本潰
三間
灰小家 弐間 本潰
三間
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 善次
桁行五間三尺下屋 本潰
厩 弐間 半潰
五間
灰小家六尺 本潰
八尺
隠居家弐間 本潰
三間
一、本家 弐間梁 三尺下屋 二郎吉
桁行 四間 下屋三尺 本潰
灰小家 六尺 本潰
八尺五寸
九尺
一、本家 弐間半 桁行 小右衛門
弐間梁 大半本潰
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 甚兵蔵
桁行 六間半 本潰
厩 弐間半 本潰
弐間
灰小家 壱間 本潰
八尺
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 久兵衛
桁行 八間 下屋三尺 本潰
厩 五尺間 弐間 本潰
三間
灰小家 七尺 半潰
九尺
一、本家 四間梁 三尺下屋 万兵衛
桁行 七間半 半潰
土蔵 弐間半 本潰
三間
厩 弐間 本潰
四間半
灰小家 弐間
三間
一、本家 弐間半梁 三尺下屋 蔦右衛門
桁行 六間半 下屋 本潰
小家馬入 壱間 本潰
五間
厩 壱丈 半潰
弐間
灰小家 五尺間 弐間
三間
一、本家 三間梁 三尺下屋 清六
桁行七間 三尺下屋 本潰
板倉 五尺間 弐間 半潰
三間
馬人 壱間 本潰
拾間
灰小家 弐間
三間
一、本家 弐間梁 三尺下屋 藤右衛門
桁行五間三尺下屋 半潰
灰小家 五尺 本潰
九尺
家数 五拾六軒
内三軒 [舞太夫|まいだゆう]
内 三拾三軒 本潰
拾五軒 大半潰
八軒 半潰
外ニ 寺 弐軒 内 壱軒 本潰
壱軒 大半潰
庫裏 弐軒 大半潰
土蔵 弐軒 本潰
灰小屋壱軒 本潰
門 壱ケ所 本潰
土蔵 三間 本潰
厩 拾壱軒 本潰
厩 六軒 大半潰・半潰
物置 弐軒 半潰
灰小屋 弐拾六軒
内 拾八軒 本潰
八軒 半潰
隠宅 壱軒 本潰
下吉田嶋村の被害
 本資料は、嘉永六年三月十四日付にて下吉田嶋村組頭、
井上六郎右衛門が二宮金次郎(尊徳)様宛に送った書翰の
中に、同年二月二日に起った地震についての被害状況が
記載されている。
 開成町史研究第七号、高田稔氏研究「足柄報徳群像
1」の中で取り上げられた資料であるが、当町関係地震
資料として貴重なもので、こゝに再掲する。
「内状を以て恐れ乍ら一筆啓上仕り候、いよいよ御安康
遊ばされ、御勤仕り泰賀奉リ候、―中略―
 然る処当二月二日、大地震に付、郷中一同難渋仕り、
尚村方之儀
 家数八十六軒之所、本家潰れ十五軒、本家半潰れ十四
軒、馬屋灰小屋潰れ十七軒、残り本家五十八軒大破損仕
り、一同当惑至極仕り、村方に於いて人馬[怪我|けが]等一切御
座なく、仕合せに存じ奉り、然る処、御仕法相守り来り
候に付、村方一同手強く相談仕り、三日早朝より早速諸
□買入方手配、諸道具等相調え、四日早朝より一同にて
木竹品相運び、五日より村方四通りに手分け致し、役人
世話人家数割合引受け、普請家起し相始め、日々出精仕
り、同廿七日迄漸く雨露凌ぐ迄、一先有増に相成り、此
段御安意遊ばし下さるべく候、右様手強く相励候儀も、
全く御仕法に基づき有難き御事と一同相悦……次に小子
儀は長々志願に付、当丑(嘉永六年)正月五日出立にて、
伊勢参宮、並びに高野山、金比羅迄参詣に罷り越し、当
二月廿日帰国仕り、途中にて小田原大地震之様子承り、
当惑至極に及び、夜を日に継いで帰国、右様外世話人と
も手配始末承り、是を以て安意仕り、去りながら右様大
変之時節に居合せず、世話方に立入らず、残念至極に存
じ候、小子本家、小子土蔵共大破には候えども、是以て
格別之儀には御座なく候、此段御安意遊ばし下さるべく
候、以下省略」
 *宮ノ臺村は、家数五十六軒中本潰(全壊)が三十三軒
(五八・九%)、大半潰が十五軒(二六・七%)、半潰八軒
(一四・二%)という全戸数が震害を受けたのである。更
に、厩を持つ家の半数十七軒が本潰、半潰となり、その
他土蔵、灰小屋物置等の被害も甚大であったことがわか
る。
 下吉田嶋村の被害も、家数八十六軒中、本潰(全壊)十
五軒(一七・四%)、半潰十四軒(一六・二%)残る本家五
十八軒も大破損を受け、馬屋灰小屋等にもかなりの大打
撃を受けている。
 この二村の震害の状況から推測すれば、震源に近く直
下型の地震であったのでこの大惨事となったものといえ
る。
 このことは、酒匂川東側、現大井町の当時の村々の震
害状況を見れば、尚明瞭となる。
(二) 大井町関係の被害
 現大井町の中で、当時の金子村、山田村、高尾村の震
害資料を紹介する。
(注、すべて既出につき省略)
 *大井町関係の震害について、四点の資料を掲載した
が、間宮家所蔵文書③「大地震ニ付、潰家其外取調帳」に
は、各家の被害状況が詳細に記録されている。その中で
本家、灰小屋、馬屋等建物の右側の数字は、それぞれの
建物の奥行、間口を現わし、被害程度と同時に末尾に記
入された金額は、間宮家の他の所蔵文書との関係から見
て、拜借金を表わしたものといえる。
 足柄平野東端にある村の被害の大きさは、本家百拾三
軒中、五拾弐軒皆潰(全壊四六%)、四拾五軒半潰(約四〇
%)、拾六軒破損(一四%)の集約を見る限り、想像に絶す
る甚大なものといえよう。
 更に馬屋、灰小屋、土蔵等の附属建物の倒壊も莫大な
ものである。
 次に、「地震に付𡋤崩道橋破損調帳」については、当時
の農村における耕作畑の被害、𡋤崩、道の破損状況が克
明に記録されており、建物以外の被害状況を知る資料と
して貴重なものといえる。
 また、丘陵地帯の高尾村では、本屋の全壊が多く山田
村では、全壊は半壊の半数以下となっているが、両村共
に死者を出していることに注目したい。
 その他の小屋や蔵の被害が大きい。
(三) 小田原周辺の被害
 小田原藩領全域に亘る被害状況を記録した資料は、い
くつかあるがここでは、二宮尊徳全集第九巻の中に収録
されている当時郡奉行勧農方の役職にあった黒柳久兵衛
外二名が、二宮金治郎宛に送った書翰並びに、小田原藩
士星見某が地震の模様を人に報告した見聞記の二つを掲
載する。
 別啓申上候、然ば[爰元|ここもと]地震に付ては、早速御訊書被成
下難有奉存候、右は去月二日巳中刻、近年稀成地震にて、
御城廻りは勿論、御家中御屋敷町郷に至る迄一時に震、
御城廻りも塀門御櫓之分等壁落、石垣崩、或は潰、御家
中屋敷之分も、御城より北揚土、上幸田、下幸田邊別て
強、潰、半潰にて、甚外も大破に相成、二ノ丸之内も小
峯邊強、先ツ私共住居之西海子邊は軽き方にて、潰家は
無之候得共、破損は一躰之儀に有之、町方も先ツ軽き方
に候得共、須藤丁、竹花邊は強、村方之儀は庄内通りよ
り、和田河原組合、吉田嶋組合 等別て強、潰家多分に
御座候、夫より東筋村々も、西大井村より金子村邊、曽
我通強、是又潰家多分にて、[御厨|みくりや]筋も竹之下村[抔|など]は關内
に不劣潰家、其外下郷邊迄は軽き方にて、格別之儀も無
之、夫より関西筋は、是又御厨邊よりは猶更軽き方、登
筋片浦筋之儀も軽き方に御座候、又中筋東郷村々之内に
も、田地割れ畔筋も微塵に相成[埒|かこい]なく、堰々はいつ方も
震ひ[理|うめ]、川通水門も[悉|ことことく]震潰、又は窪ミ田畑𡋤崩れは是又
[夥敷|おびただしく]、實に當惑仕候儀に御座候、即死は弐拾三人、斃馬
四疋有之、怪我人拾人程之届には候得共、是以半死半生
之者、其外少々ヅツ、之怪我人は數多可有御座、又百姓
家、潰、半潰共合弐千弐百弐拾九軒程、厩小屋之類、潰
半潰合弐千八拾九軒余、其外大破小破之儀は筆紙に[難盡|つくしがたく]
御座候、乍然先ツ白晝之事故哉、即死怪我人も少く、火
災等も無御座、夜中之儀に候得ば、何程之異変に可相成
哉、唯今以少々づつ折々震ひ居、誠に天災之儀に候得ば、
致方無御座候得共、最早苗代時節にも相及、其内植付に
も至可申候處、右様堰々崩埋り、流水無之、甚以心配仕
候儀御賢察可被下候、故此節役々出張いたし居、専ら世
話致居候、出火[抔|など]と違ひ、一般之儀に候得ば、誠に當惑
至極之儀に御座候、右は荒増地震之模様申上度、且ツは
先日之御報御禮旁々申上度如斯御座候以上
三月十七日 黒柳 久兵衛
竹内 藤左衛門
井澤 佐左衛門
二宮金治郎様
「小田原藩士星見⑤某書翰」
(震災予防調査会報告第四十六号所載)
小田原地震之模様
一、当月二日四ツごろの地震、御天守極く大破、御屋形
大破損、本丸、二ノ丸、三ノ丸、塀残らず御堀の水中
に落ち申し候。三階の渡り櫓、大手渡り櫓等、残らず
潰れ申し候。
一、酒匂川橋、前川橋等落ち往来通路これ無し、二子山
より大石等往還え落出し、七日の間、往来これ無し。
箱根宿、畑宿ならびに温泉場、何れも大破、箱根御関
所、矢倉沢御関所等、月に二日の交代に候処、是れを
以て御番所交代も相成らず、十五日目にて交代いたし
申候事にて候。
一、御家中内も、御城より北の方極く大破にて、潰れ家
も多く、然しながら人死者は御家中にはこれ無く、御
城より南の方は破損少しにて、然しながら小田原宿元
等は間口五十間の大石垣残らず往来になけ出し、居宅
も破損、壁も余程ふるひ、家も曲り、新規立て同様に
致さず候ては相成らず、然しながら門は破損これ無く
候。殊に拙者の部屋など大破損し泉水の方に曲り、壁
もふるひ、拙者事、度々小田原へ出で候ても、部屋普
請これ無き内は困り候事にて候。兄作太夫等は、屋敷
内の稲荷社の前に幕打ち、十五日の内、野陣にて居住
いたし申し候。小田原宿元は破損これ無き分也。
一、御家中、町家、在家ともに皆野陣にて、御家中高禄
は幕打、又小身のものはむしろ渋紙等にて四方かこひ、
当分居住、町在共に何れも戸板など、あるいはむしろ
等にて寒さを凌ぎ居り候様子に候。小田原総氏神松原
大明神等、本社のみのこり拝殿その餘皆総潰れ、是も
御上普請、いつ出来候やも計り難き事、小田原町中、
みな居住のものこれ無く、何れも浜に出で、あるいは
野陣こも張のうちに入り候事故、たまたま近辺歩行の
人も、めし酒もこれ無く、困と申す事にて候。町家も
小田原城下十九町のうち、竹ノ花町、須藤町、大工町
は町家総潰れにて立つ家一軒もこれ無く、又町中の土
蔵等は、御城より北の方は多分総潰れにて、町中無事
の土蔵は一つもこれ無く候。
一、近在も岡本村、塚原村辺は人死多く、道了権現等大
破、近在村々矢倉沢までのうち、潰家千八百八軒これ
は御上届けにて候。
一、近辺寺院も格別の破損にて、都て墓所等は何れの寺
院も墓総倒れ、誠に珍ら敷事にて候。小田原元禄の大
地震も、是程に家中までの潰家これ無く、然しながら
元禄の度は、御天守より出火にて、御本丸、その外焼
失と申し候。天明の大地震も、この半分にもこれ無し
と申し候。この度の地震に付き、町方三カ所出火に候
得ども、早々けし留め、火災はこれ無く相済み申し候。
幸便に任かせ見分あらまし申し進め候。
 *小田原藩内の被害状況は、二つの資料で概略を知る
ことができた。
 嘉永地震の被害は、天明地震をはるかに凌ぐものとい
われ、元禄地震に次くものであったと地震研究資料に述
べられている。
 ただ、人的被害は、元禄地震の時の死者二千三百人に
比べ、二十三人と極めて少なく、火事も町方三カ所から
出火したが、早々消し止めたので火の禍を受けなかった
のは、不幸中の幸であった。
 震度の激しかったことは、元禄の時と同程度であった
らしく、特に足柄平野はごく震源に近かったものと推定
され甚大な被害を受けたのである。
 特に当時の農家は草葺屋根で、その重みによって土台
が動きにくい爲、倒壊被害を多く出したものと考えられ
る。
まとめ
 「神奈川県西部地震への関心と対応」という主題に迫
る一方策として、嘉永六年(一八五三)の地震について郷
土を中心にした古記録を集録したのであるが、当時の家
屋、田畑𡋤崩、道橋等の被害を知ることができた。
 然し、マグニチュード6.5という直下型の中規模地震で
あったが、小田原を中心に、十五キロ~二十キロ程度の
範囲に入る足柄平野一帯が、甚大な被害を蒙った状況が
よくわかるのである。元禄小田原地震や関東大震災とい
う連合タイプで非常に広範に亘り被害を及ぼす地震と
は、その規模において異なるとはいえ、改めて直下型地
震の恐ろしさを痛感する次第である。
 この地震によって当時の村々では、家屋は倒れ、田畑
は荒れ、その復興には各村を中心に、小田原藩や江戸幕
府の援助によって長年かけて努力を重ねたのである。
 嘆願書、拜借金や返済に係る記録、穀物による援助の
記録等、復興にかゝわる各村の資料も集録を続けている
ので、折を見て整理することにしたい。
 マグニチュード7.0という地震が仮に起きたとすると、
断層の大きさは、40㎞×20㎞といわれ、その位置によっ
て莫大な被害を受けるのである。
 地震国日本に住む私達、特に小田原や伊豆半島、駿河
湾に近い位置に生活する者として、地震との付き合いは
避けられないので、平素出来得る事からその対策を各自
が考えておく事を提言したい。
 終りに、本稿の集約にあたり当町並びに大井町町史編
纂室の関係各位に御助言を戴き、併せて資料を提供され
た各位に厚く御礼を申し上げる次第である。
 また、松田町の鍵和田吉平さんには建築家の立場から、
現存する二間半梁三尺下屋、桁行六間半造りの家まで案
内頂き、家の造りを説明願い併せて御礼を申し上げる。

③間宮恒行氏所蔵文書は、現在県立公文書館へ寄託され
ており、嘉永六年地震関係文書は、横帳で九点残され
ている。
④吉田嶋組合 江戸時代後期、幕府により新たな農村統
治機構が設定された。それが組合村である。文政十年
(一八二七)に関東一円に結成されているが、小田原藩
は既に独自の組合村を設定していた。この組合村がい
つ、いかなる理由により設定されたかは、明確ではな
い。然し、幕末期の史料として残されているものを紹
介する。
「二宮尊徳全集」第十四巻によると、天保八年(一八三
七)当時、吉田嶋組合村に入っていた村は、次の通りで
ある。
吉田島、金井島、延沢、中ノ名、円通寺、両牛島、宮
ノ台。この改革組合村の中心となる村は、いずれも脇
往還ぞいの村々で、その組合の中で最も小田原に近い
有力な村が選ばれている。廻状の伝達、奉公人給金の
取り極め、質素倹約・風俗取締りの外、年始や歳暮、
神事・佛事など、細かなことまで組合村で申し合わせ
ている。(神奈川県史・通史編3近世(2))による。
⑤星見某は、小田原藩御家中先祖並親類書、順席帳等の
記録から里見某ではないかと思われる。
参考文献
二宮尊徳全集 九巻
大井町郷土史研究会機関誌「於保爲」第十号
西さがみ庶民史録 第12号、第15号
小田原市史 史料編 近世Ⅲ 藩領(2)
近世小田原ものがたり 中野敬次郎著
大日本地震史料 株式会社 恩文閣発行
神奈川県西部地震 被害想定 一九九三年五月発行
順席帳 安政五戊午歳 有浦 縄(小田原有信会発
行)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 378
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 開成【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.002秒