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項目 内容
ID J2700166
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信・上越〕
書名 〔能生町史 上巻〕能生町史編さん委員会編S61・6・30 能生町役場発行
本文
[未校訂]善光寺地震
弘化四(一八四七)年にこの地方を襲った
大地震は、その震源地が信濃水内郡辺り
といわれ、折しも善光寺では秘仏の御開帳中だったため
に、諸国からの参詣者がこの災害に巻き込まれ、多大な
被害を出したことから、世に善光寺地震といわれている。
 能生谷では、「嶋道村儀右衛門と云うもの善光寺にて
死、鷲尾村太郎左衛門娘壱人死」と佐藤藤右衛門の記録
にある。
 三月二十四日の夜四ツ時(午後十時)に初震があり、五
日後の二十九日昼九ツ時(正午)に再震があった。領主榊
原侯が幕府ヘ上申した「越後頸城郡高田城下并郡内震害
御届書」によれば、領内の町在潰家四七七軒、同大破家
 一五四一軒にも上っているが震源地に近い信濃境郷村に
被害は大きく、高田から西方の村々は比較的軽かった。
 佐藤家の記録によれば、「丹波嶋の奥にて山崩れ、川以
下ヘ日数三十日も出水せず、其時御大名、百姓を引きつ
れ川筋をほり候ヘば、思ひの外川ベりくずれ、壱度に出
水、百姓多死す。川下の百姓家人共に流れ、川出ず先に
山ヘ引こむ人もあると云事也」とあって「地震の時、賀
州大聖寺様賀州より江戸迄お通りにて、丹波嶋あやうき
とて、能生宿に三月廿九日より四月八日迄、都合十日斗
も御逗留」と記されている。
小屋がけ
溝尾の伊達家「年代記」に、
一 弘化四年未三月廿四日晩四ツ時大地
震、同廿九日昼大地震、中でも信州善光寺大いりに
て不残いりつぶれ申候、尤もこの辺にても暫く表に
出、居宅小屋拵ヘ、如来様をはじめ迎ヘ奉り、馬、
牛、鶏、猫の類迄つれ出し、彼小屋に入れおき、日
数十四~五日ばかり住居致候、猶其の後、日に何度
となく小地震度々いり候事、霜月、師走時分迄いり
申候、誠に稀代之事有之候
とあり、また「上能生史料」にも、
一 善光寺の地震参拾日打続きたる強震あり、部落民
戸外の比較的安全地帯に小屋を建て避難、人心悩々
たり、死害なし。一説に此善光寺地震なるもの善光
寺の御開帳の折、興業師うんと金を儲け、其の[崇|たたり]に
て大地震起りしと、当地方は其余波を蒙りしとの事
なり
とあるが当地の被害状況は、平の佐藤家記録に、
 三月廿九日昼九ツ時大地しん、此時下倉村源助と云
うもの家一けんつぶれ、又同日暮六ツ時大地しん、然
れ共初の廿四日の夜の地しんよりは小さし。其外少し
づゝ動くこと八十一日一夜に十度も十五度も動くこと
也。入出しの廿四日の夜はやむ間もなく少しづゝ動
と伝えている。
 『越後頸城郡誌稿』の中でも、「二十四日夜より城下市
在とも仮小屋を造り、仮住居をなしたれども本家に住す
るものなし。七月頃に至て何れも帰住することゝなれ
り。」と見えている。地震が治まるまでの間は二次災害の
火災を防ぐために、小屋掛けの中で起居したもののよう
である。
 余震は五月から秋末に至るまで数十回続き、冬になっ
てようやく治まったが、更に四~五年の間は折々震動が
あったことが記されている。いかに大地震であったかが
想像されるのである。また大地震後の大津波、大海涌に
ついても、「北海より往古の如く押しよせるベし」と一時
は高田城市大騒動となったが、ことなきを得たようであ
る。
 そしてこの大震後は日々快晴が続き、浜は大漁でカレ
イ・タイ・イワシが沢山捕れ、それに信濃路の通路が地
震で不通のため、当郡はいずれの魚棚も鮮魚の山をなし
たという。
 また偶然とはいいながら、寛延三午(一七五〇)年は大
干ばつで、その翌未年に大地震があり、この地震も前年
の弘化三午(一八四七)年はまれなる干ばつであったが、
翌年のやはり未年に大地震が起きた不思議を『越後頸城
郡誌稿』は記しているのである。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 358
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
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