Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2700099
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔国見町郷土誌〕○長崎県S59・3・30 国見町編・発行
本文
[未校訂]第八章 寛政の大変と松平藩
(前略)
 さて島原半島では、安永五年、旧領に復帰した翌年「除
米制」を設けて、年間五〇〇石を緊急事態に備えたので
あるが、藩財政の窮乏はそれさえも食い込んでしまって
いたので、何らなす術もなかったということである。そ
れでも、忠恕は救民の目的と、財政再建を目指して備穀
の増加を計ろうとした。これが「救民[儲穀|ちょこく]法」である。
しかしその意は天に通じなかったかのように、突如とし
て雲仙岳の大爆発が起こり、島原半島は言うに及ばず、
津波によって、対岸の肥後国宇土・玉名・飽田・天草の
各郡にまで驚くべき損害を与えたのである。この寛政の
大変災によって島原半島は物理的にも、政治経済的にも、
さらに最も尊重しなければならない人命にまで大打撃を
受けた。そしてこの害は肥後国にまで及んだので、後に
「島原大変、肥後迷惑」と言われるようになった。
寛政の大変災
 地震の前ぶれは前年の寛政三年一〇月頃から始まり、
一一月一〇日頃から強まっていた。
寛政四年(一七九二)
正月一八日 この日夜半になって第一回噴火が起こ
り、一カ月余の後止んだ。この噴火の
跡を地獄跡と言い、普賢岳に火口がで
きた。
二月四日 三会村穴迫谷で土砂崩れがあった。
六日 土砂を噴出。
九日 溶岩流が噴き出し始め、杉谷村千本木
まで流れた。
この頃のことについて『島原半島史』下巻に、
九日には遂に火気を発した。即ち溶岩を噴出したので
あって、次第に谷を伝わって東方に流れ行く。此の光
景を見た住民たちは、非常に驚いて、将来どんな異変
が起こるかと危惧の念にかられていたが次第に[狎|な]れて
来て、後には遊観者が殺到し、[俄|にわ]かに茶店酒鋪が出来
て、歌謡三弦の音が山野に充満するといふ有様である。
と記されているが、なお同書中にある『島原大変記』に
よると、
後には見物の者登山いたし、中には[毛氈|もうせん]、茶弁当も
ちらつき、登山下山の[輩|やから]は誠に市をなすが如く、夜は
また[燈松明|たいまつ]にて昼夜の分もなく、猶又茶屋[商売人|あきないにん]は酒
肴[を調|ととの]へ、[酒迎|さかむけ]の[粧|よそお]ひ、誠に眼前に地獄を見ながら酒
宴の有様、見物花見遊山のように心得、始の程に引か
へ下山の折には、ざざんざの浜松やら小歌やら[皈|かえり]て見
物の者共の中には怪我あやまちも是有趣、日々夜々に
群集せり、余り法外の[体|てい]御上江聞え見物停止被仰付候
程の事共なり、[尤|もっとも]家別亭主一人宛は様子見届のため御
[構是|かまいこれ]なし、……(後略)
という有様を呈したのであったが
二月二九日 鳩の穴の少し下にある蜂の窪が噴
火した。
閏二月三日 その西の[飯洞岩|いいほらいわ](振り仮名は『多比
良町郷土誌』による)が噴火し、古
焼付近でも噴火が起こって、溶岩
流の勢いは激しさを増して城下に
迫ろうとした。
三月朔日(一日) 午後四時(申刻)頃、今までになか
ったほどの大地震があり、前山(眉
山)は鳴動し、その度ごとに岩石、
砂が崩れ落ちた。夜に入っても火
焰は絶えず、前山の樹木はすべて
焼失した。
戸や障子がはずれるほどの激震が
一〇回以上あったという。
この間においては大混雑の避難騒ぎもあったであろう。
藩主家の子弟も三月二日には、一時居を守山村に移し、
城下町はゴースト・タウン化した。渋江鉄郎氏著『眉山
ものがたり』によれば三月六日には藩使を派遣して各戸
の戸主に帰宅を促している。この時点では、神代村は守
山村と同様に安全地帯とされていた模様で、三月一五日
現在、三三六人の避難者が入っていたということである。
 城内外の石垣、塀や一部家屋の破損は大半に及び、ま
た安徳村から杉谷村にかけて、そこかしこに地割れを生
じ、湧水箇所もあった。
 この後、余震や地崩れは起こっていたものの、しだい
に勢いは衰えてきたので、三月も末頃になると平常の状
態に復していた。ところが
四月朔日 日没後に激震が起こり、前山も爆発して、
その南峯天狗山の東の面が吹き飛んでし
まった。このため島原港は砂地と化し、
その様相は瞬く間に一変してしまった。
この時に現在の九十九島ができたのであ
るが、山麓の村々の中には、人畜共に地
中に没してしまうという悲惨な状況であ
った。
これに伴って前後三回もの津波に襲われ
た。
 被害地は島原城下町を中心として、南北二〇ヵ村に及
んだ。北から西郷・上伊古と下伊古・神代鍋島分領の東
里と西里、土黒、多比良・湯江・大野・東空閑・三ノ沢・
三会・杉谷、南目では安徳・深江・布津・堂崎・町(有家
町村のこと)・有田・隈田・北有馬・南有馬(浦田)の各村々
にわたっている。
 被害状況は史料によって異なっている。旅の人もいた
であろうし、島原人が肥後の海辺に打ち上げられたり、
またその逆もあったことであろう。それにしても死者だ
けで九、○六四人(内武士及びその家族五七六)と記録さ
れている。被害戸数については明らかではないが五、○
〇〇軒を超えるともいわれる。本田・新田合わせて二六
○町余、本畑・新畑合計一二〇町余、塩浜二二町三反余、
舟二八二艘となっている。城内の被害も大きく、他に寺
院・神社・橋・往還道筋・鳥居・波除石(防波堤)等も数
多く流失している。(以上の記録は主として藩から幕府へ
提出した報告に拠るものである。)参考までに『島原大変
記』所載の被害状況に関する記録の一部を転記しよう。
(注、「新収」第四巻別巻九十頁の被害と同文省略)
 橋口清氏(西里)蔵『天向書』(同氏の祖先与次兵衛氏の
書)によると、土黒村の死者二三人となっている。しかし、
これはどのような資料に依るものか、あるいはいつの時
点のものであるか等明らかではない。ちなみに多比良村
八三人、三会村二七〇人、三ツ沢村一二三人、東空閑村
四二人、大野村五人、西郷村六人となっている。
 寛政大変に関する記録はかなりな数に上り、その中に
は具体的に書かれたものがある。その一部は既に紹介し
たが、次に多比良村の様子を『多比良町郷土誌』によっ
て再現することにしよう。
 四月朔日は晴天で地震もやや穏になり、人々少しく
安堵した様子であったが、酉の下刻頃(午後七時頃のこ
と)に至り、非常な大地震と同時に海上俄に鳴動し、其
音甚だ凄しかったので、船津名の人々は大に[慌|あわ]てて如
何なる大変の起ったのだろうかと、各家を飛び出し海
上を見渡したところが、沖は一面真暗く物のあやめは
わからぬが、大山の崩れ来るかと思うばかりの鳴動で
あるので、こは只事ならじと取るものも取りあえず、
寺の方を指して逃げ登ろうとしたが、路はわずかに三
筋であって大勢こみあい、中々急に[捗取|はかど]らず、[兎角|とかく]す
る中、山のような大きな波が寄せて来たので、出口の
坂、又は寺の岸中にて老人子供は波にさらわれたもの
も多かったと云うことである。
 松屋本家の先祖松本仙之助と云う人は、津波の音を
きき、何事ならんと直ちに裏の薪小屋に上り海上を眺
めおる内、[忽|たちま]ち洪波の為に小屋もろ共にさらわれて、
遠く沖まで流されたが、幸に二の波で寺の岸へ打寄せ
た時、松の枝に取りつき漸く危難を免れたと云うこと
である。
中略
 船津名の全部、洪波の為に流出し、僅かに残れる家
は、内田硯三郎、松尾小左衛門、甲斐金右衛門の『ぼ
や土蔵』三軒のみであったと云う。
(後略)
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 124
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長崎
市区町村 国見【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.001秒