[未校訂]第二十章 寛政の地変「島原大変」
不運続きの藩主松平忠恕に更に又災害が重なった。字
都宮から帰って十八年目、寛政三年(一七九一)の秋から
千々石村沖の海底のマグマ溜りを震源地とする地震が相
ついで始まった。
連日続く上下動と水平動、そして翌年の一月と二月に
は普賢岳が爆発し、熔岩が四キロも流れ下った。一月十
八日の夜半、山々は鳴動した。朝見ると黒煙がたちこめ、
すさまじい火災は空をこがしていた。四月一日には、大
爆音が起り眉山は破裂し、大津波が起り、町も畑も一瞬
の内に埋没し、大津波は人も家も一挙にさらった。全く
の修羅場で、被害は空前絶後の大惨事であった。
島原領民の死者九千六百四拾余人、天草三百四拾余人、
熊本側四千六百五拾三余人、島原の流失家屋は三千三百
四拾七戸、三百七拾八町の水田が消えた。
藩主忠恕は、大地震の再発を恐れ、四月二日、城を出
て守山村の庄屋中村佐左衛門居宅に避難した。
そして五日、守山村から書を送って、諸役所の移転と
家臣達の退避を命じたが、島原城を離れるは、武門の恥
とするところであり、いろいろの意見に分かれたが、つ
いに四月八日諸役所を三会村の景華園に移し、家中は皆
北目方面に退避することにした。
四月八日、馬廻役の川井治太夫が自決した。治太夫は
藩主が城を離れることに絶対に反対であったので、城を
捨てた藩主に対しての憤死であったと推察される。
四月十九日、藩主忠恕は、守山から馬に乗り家臣を供
にして、島原城下を視察した。
大手門の門外に立ちて、城下の災害に一驚した。町と
いう町はことごとく流失して、土砂に埋り、見るも無惨
な光景であった。
安永三年、悲願の帰国がなってから十八年。往時、天
守閣から眺めた島原城下の眺望とは全く思いだにせぬ変
わり果てた惨状の有様である。思えば、ただ感慨無量の
思いであったろう。
その被害の大きさに、胸はふさぎ、己の身の不運を慨
いたことであろう。城を留守にした自責の念と、復興の
困難に、前途への望みを全く失い、守山村に帰った忠恕
は、その苦労と過労の為、翌二十日にわかに病気になり、
二十二日病状は重く、二十七日午前二時卒去している。
享年五十一歳であった。
一説には幕府からの譴責を恐れて自殺したとも伝えら
れている。
四月一日の島原の大地変の報に接した幕府では、二十
三日、当分の応急処置として、手当二千両を貸した。現
在の金額にし、約五億円であろう。そして六月十日には、
町、村の被害者の生き残り者に対して救援米数千石を与
えた。その後更に、被害の甚大なるようすを聞き、九月
には一万両を十ケ年の年賦返済の約束で貸し与えた。
往時に於ける当地の被害の惨状についての記録は見当
たらないが、民間のもの一つとして、比較的に纏ってい
る「島原大変記」上下巻のなかから一部抽出して、往時
をしのぶことにする。
「殿様にも守山村御本陣、御立退彼遊御家中不残御城
へ相詰め日々の評定まちまち也御家中の御家内三会村よ
り三ノ沢、東空閑、大野、湯江、多比良、土黒、西郷、
伊古、伊福、三室、守山、山田石拾三ケ村内思ひ〳〵に
旅宿を定め御立退有。其通路尺寸の間も絶ゆることなく
大刀長刀を帯し道中の粧は、往昔源平の戦に平氏の一門、
須磨の大裏を開き有様斯くやと思うばかりや……
御上にも甚しく御心遣に被思召、御家中不残立退候様
との御上意度々及ひとや、夫より諸役所の道具抔夫々取
調へ三会村景華園と申茶屋へ諸役所を構え、四月八日に
は家老衆を始諸人残らず景花園へ御引退。是よりして御
城を守り、昼夜交替有て御番有、尚亦御城下流残総計の
町家比々空家に同じ、往来の人もなく、るい〳〵たる死
骸片付ける人もなく、誠に荒廃たる有様ものすごくまた
哀れなり。斯る時節を待ち構えたる盗賊共、空家に人々
多捨たる衣類家具を盗み取り亦海辺には船を引附け流れ
たる諸道具衣類悉く積取逃れる者もあり。其騒動大形な
らず、是に依って御役人衆取鎮の為、御廻有、其の行粧、
戦場に異ならず、鎗は鞘を外し、或は鉄砲飛口各得物得
物を携え、昼も夜もなく御廻り候……」等、記している。
又、島原半島史(林銃吉)には、「北目方面筋流村」とし
て、次の通りでている。
北目筋流村左之通として
一島原村但今村不残 一杉谷村但浜辺計
一三会村但人家浜辺 一三ノ沢但人家浜辺
一東空閑但同断 一大野村但同断
一湯江村但同断 一多比良但同断
一土黒村但同断 一西郷村同断
〆北目筋十ケ村
と記してある。三ノ沢村但人家浜辺と出ているのは、恐
らく松尾駅下一帯の人家浜辺共すべてが流失したものと
推定され、東空閑村、大野村、湯江村の海岸線も同様に
被害をうけたものと思われる。現在それらの個所には、
それぞれ「寛政地変の供養碑」、即ち千人塚が建立されて
いる。
当時の惨状を記した絵図面(幕府へ報告)によると、高
潮の最高は布津町の二〇M内外、他の地域は平均七M―
八Mであったと伝えられている。
尚、地震発生前後の模様が「和光院」年表にかなり詳
細に記されている。左は「島原風土記二号」(島原歴史懇
話発行)に掲載された年表史料で、解読は渡辺嘉雄氏であ
る。
和光院年表
寛政地震の関係分
(和光院関係 丸印)
元号・年
西暦
月日
藩日記
寛政三
一七九一
十月
廿三日
寛政三年十月八日より地震始まる
御領分温泉山ハ御城下ゟ五里程相隔候
大山にて入湯場寺院其ノ外人家も有之候処十月八日申ノ刻頃ゟ輕地震引續度々有之
同戌刻頃強地震に而途中歩行難成棚物等も落候程ニ有之候其後引続同様[輕震折々|カルキブルエオリオリ]
有之候[温泉山|オンセンザン]麓小濱村民家[凡|オヨソ]弐千弐百軒餘有之候村ニ候人家損田畑井手筋川除石
垣谷崩等ニ而作地も相損左之通申上度候
一、本家四軒半潰
一、本家小屋共三拾軒囲石垣崩
一、井手筋弐百弐拾軒所〻石垣崩用水通路止
一、川除石垣谷拾三間崩
一、田畑六拾四ケ所石垣崩大[損|ソン]
一、谷筋ゟ野方ニ掛長六百間程之[所|トコロ]地割右之内百間程之[場所ハ割幅弐尺餘|バショハワレババニシャクヨ]
一、御城下其外村〻共[申半刻同様酉半刻|サルハンドキドウヨウトリハンドキ]同[亥刻|イコク]地震有之温泉小浜村之儀者御当地
ニ而者稀代之地震ニ有之候
四
一七九二
正月十六日加津佐村御林江[松茸生出|マツタケハエイデ]留礼渡
十九日普賢山之儀是迄温泉無之候処昨十八日戌ノ刻頃ゟ普賢山鳴動普賢石段下ゟ[湯|ユケ]
[烟夥敷|ムリオビタダシク]吹出山奉行其外見分罷越様子届出候其後も[追々|オイオイ]見分ニ罷越
廿日右吹出ニ付普賢[尊躰|ソンタイ]温泉一乗院へ引取候段小浜村ゟ申出候
同日普賢山吹出之儀江戸表江被仰遺候ニ付書付出
廿四日普賢山吹出ニ付國家安穏之祈禱仕度温泉山一乗院願出
同七日普賢山三会村之内穴迫江昨六日巳刻頃鳴動強吹上候旨届出候
同八日右吹出石岩崩落候分火ニ相成候趣三会村ゟ届出代官山奉行見分罷
越相違無之旨申出候
同十月一乗院[弟子|デシ]共普賢山吹出之儀板行に致一乘院御[咎|トガメ]
同十四日三会村社人奥山吹出場所江仮家建國家安全致祈禱候届出翌日宅において致
祈禱候様被仰付銀五枚被下同十六日温泉山一乘院普賢山吹出祈禱仕度申出銀拾枚被
下
同晦日普賢山蜂窪与申所へ昨廿九日煙吹出候段三会村ゟ届出
閏二月三日奥山吹出見物無用之段大横目觸
同四日郡方土蔵に昨夜盗人入銀銭盗取
同七日長崎御奉行昨六日御死去ニ付御上長崎江被遊御越候段大横目有之
同十三日御發駕同十七日御歸城
三月朔日今朝ゟ申ノ前刻ゟ致地震次第ニ強震度数[難算|カゾエガタク]依之三之丸
御老衆始御夜詰諸役人御役所へ[夜中|ヤチュウ]共相[詰|ツメ]候
同日変之節御手当御[書付|カキツケ]出
同二日地震ニ付村方[御咎牢|オトガメロウ]並手錠入村預等之届先差免候様被仰付候
同日御子様方山田村へ御立退
同三日御立退御供役掛被仰付且又変ニ付村々ゟ船数艘追々乗廻
同六日打續地震強村方難儀ニ付去ル[酉年ゟ|トリドシヨリ]之囲殼御足穀共[壱ケ|イツケ]年[分|ブン]村々江相渡御足
穀者被下切村出穀者手数壱ケ年[廷|ノベ]出穀候様被仰付候
同八日江戸御飛脚認候付去ル三日以来地震焼岩之様子書付出
同九日島原村今村之上前山之内楠山[与|ト]申所昨夜横四百間程[竪|タテ]六百間程崩候段届出
同十日焼岩次第ニ焼下候付右[場所に|バショニ]て温泉山一乘院祈禱仕度願出願之通被仰付十四
日ゟ祈禱初
同十五日此度御雇水夫賃一日米[壱升|イツショウ]銭四拾文[ニ究|キマリ]
同十七日御子様方御立退被遊御座候処今日御歸城
同廿五日奥山おふしが谷へ地震に而毒石震出右谷分レ道江札建
同晦日三之丸詰明朔日ゟ御差略被仰出候
四月朔日
一、酉之刻過地震強両度震前山之内先月八日崩候場所大ニ崩洪波死人[怪|ケ]我人夥敷
和光院者東照宮の御宮護の寺にして大寺なるけるが観音堂共に跡形もなく和光院
別当職流失に付東叡山に追而被遊御召下候(大変記)七世良寛 寛政四年四月朔日
薨
二日
此度大変ニ付殿様守山村庄屋方江被爲遊御立退候御子様方にも追々被遊御立退候
五日
一、奥山焼前山崩不相止趣ニ付被仰渡之筋有之御請申上尚又翌六日被仰渡候筋有之
六日
一、右ニ付三会村景花園三之丸[替|カへ]ニ相立役所構有之様
七日
景花園江何も引越郡方役所同村専光寺江相構候
十九日
一、殿様少々御不快被成御座候尤心遺申上候程之儀に[者無|ハナキ][之段|コレダン]被仰渡候
廿五日
一、此度[破損|ハソン]有之村方江田植[祝|イワイ]等致候様御酒被下候
廿七日
一、殿様御不快[至而|イタツテ] [大切|タイセツ]に[被為入|イラセラレ]候且[極御内々ニ与|ゴクオンナイナイニ ト]被仰聞候者今暁丑之半[刻|トキ]頃被
爲遊[御逝去御弘有之|ゴセイキョオヒロメコレアリ]候迄[決而口外致間敷旨被仰出候|ケツシテコウガイイタスマジキムネオオセイデラレソロ]五月二日
洪波之節流失之江東寺右晴雲寺預桜井寺崇台寺右快光院預ニ候段[御沙汰|ゴサタ]十二月五日
預寺宗門帳書法極
七日
一、米千石右者大変ニ付町在流家之者江御手当被下置候
八日
一、江戸御飛脚到来山崩高波ニ付[当分爲御手当|トウブンオテアテトシテ]金弐千両[彼拜借|ゴハイシャク]被[蒙|コウムル]仰候旨被仰渡一
席壱人宛恐悦申上候
九日
一、殿様御病氣養生不被遊御叶今暁寅ノ前刻被爲遊御逝去候 日数五十日音曲普請
御停止ニ候段被仰渡候
右ニ付御徒士足輕江戸へ早追罷越候
十七日
一、荷物差札繪符之類以来松平主計頭[与|ト]相認候様靭負殿被渡候
十九日
一、今日御老衆昨島原江御引移明日ゟ三の丸へ御出仕ニ付郡方も三会村引払候
廿七日
一、五ケ庄 庄屋共大変ニ付爲伺御様躰罷越候
六月十一日
一、御預所天草郡四月朔日洪波流家拾八カ村へ金四百両従公義拝借被仰付外ニ銀拾
枚流死人施餓鬼料寺院へ被下候
一、江戸御飛脚到来左之通被仰渡
若殿様江被仰付候様御願書御用番
戸田采女正様江被差出候事
一、御典医井上良泉様御願相済御立神原駅ゟ御立歸之事
一、宇佐八幡宮江従
公義五穀豊熟安全之御祈禱付候段 豊州ゟ来候
十二日
一、若殿様向後 殿様与奉[称|トナエ]候 大横目触
十七日
一、今日本光寺御葬式[御|オン]空[荼毘|ダビ]御座候
五年
一七九三
三月十八日
一、宝筐印塔一乗院ゟ堀町通外レ道上ニ建候
廿七日
一、去子四月流死之者永代供養所御城下建本光寺多福軒持ニ被仰付候學問所開講初
ル何も勝手次第出席候様被仰付候
六年
一、信州善光寺 如来開帳勤化國々相廻り当表江も罷越候段御留守居ゟ申来候由御
沙汰有之候
六年四月十七日
松平忠憑和光院義諶を召して東照宮と和光院再建を命ず