[未校訂] 宝永四年十月四日の[未|ひつじ]刻(昼ころ)に地震が起り、「地
大イニ震ウ、声有リテ雷ノ如シ、地裂ケ水湧ク、(中略)
五剣山一峯崩レ墜チテ、火光電ノ如シ、(中略)廬舎壊レ
墻壁崩ル、営構堅固タリト雖ドモ、屋傾カザルハ無シ、
独リ東浜魚肆瓦屋[咸|ミナ]崩壊ス、圧死スル者甚ダ[衆|オオ]シ」
(松浦文庫蔵「翁嫗夜話」)という状態であった。また「往来一足も引(行カ)く事
ならず、丁々の土塀と土塀と大方打合う程に覚え候由、
四日一日ニて止ミ、[夫|それ]より日々天水のざぶ〳〵こぼれ候
程の地震間もなくゆり、大方其の年中静まらず候由、日
の内に四十五六度ゆり候事もこれ有り、十月中ハ小屋住
居ニて、本家へ入り候事は相成らず候、土地わ(割)れて白キ
水流れ出で、後ニは鼠色なる何とも合点の行かざる髭(ママ)生
じ候由、前代未聞の事の由、家中郷町共家破損ニ付き御
蔵を開き過分の御救米銭下され候由」(松平家文書「消暑漫筆」)、「山崩
レ谷埋リ大地裂テ白色ノ泥水湧キ出テ、人家破壊シ転倒
シテ死スル者数ヲ知ラズ、其ノ後日夜四五度ツヽ震フコ
ト月ヲ超ヘテ止マズ、潮汐高ク満チルコト常ニ倍ス、此
ノ十二月ニ至リテ常ノ如シ」(「尾崎卯一関係史料」鎌田共済会郷土博物館蔵)とあり、
その後も地震は続き十二月に入っておさまっている。こ
の年十一月に富士山が噴火し、山腹に宝永山ができたこ
とはよく知られている。
この時の高松城下の町分の被害状況は次のとおりであ
った。
一家数大小三九五軒 土蔵七か所
右潰れ
一家数大小二五四軒 土蔵十か所
右大破、修覆に懸り申さず、潰れ家同前、其の
外破損これ無き家は一軒もこれ無く候
一死人二九人(内男九人、女二〇人) 怪我人三人(内男
二人、女一人)
なお潰家・潰家同前の家中屋敷は四五軒、郷中は二三三
軒、河口番所三か所が崩れた。また「往来道大方こわれ
候、八栗山の嶽三ケ所大石落ち」たという(河野家文書「恵公外記」)。
高松城の被害状況は次のように幕府へ届けられた。
一天守櫓屋根瓦落ち壁損し申し候
一多門二か所転び懸り申し候、其の外の多門少々ひづ
ミ屋根瓦落ち壁大破仕り候
一城内石垣幷びに掛ケ塀所々崩れ申し候
一城内潰れ家一九軒、此の外二・三之丸掛塀大破仕り
候
一城内橋一か所崩れ申し候