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項目 内容
ID J2700067
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/10/28
和暦 宝永四年十月四日
綱文 宝永四年十月四日(一七〇七・一〇・二八)〔東海以西至九州〕
書名 〔徳島の地震津波―歴史資料から―〕猪井達雄他著S57・2・20徳島市立図書館発行
本文
[未校訂](永正九年八月四日、慶長九年十二月十六日、宝永四年十月四日、嘉永七寅年十一月五日四ヶ度之震潮記)○宍喰
(中表紙)
『宝永四丁亥年十月四日震潮之旧記写』
(内容)
 宝永四亥(一七〇七)年十月四日天気殊に晴やかに四方
雲なく微風なし巳ノ下刻(十一時)大地震にてよわき家土
蔵崩れ つよき家土蔵とも壁落ち鴨居はなれ衆人周章し
愛宕山へ逃上り候処 地さけ水湧出川水井などまししば
らくありて川泉残らず引かわき海底もはるかに干潟とな
り それより大潮未ノ刻(午後二時)ばかりに矢を射るご
とく来て浦中家蔵流失し溺死人男女拾壱人浦中漁具残ら
ず流失 土佐屋五兵衛と申者の船拾反帆(一五四石位)願
行寺南之畑に流れ上り尤も寺院は残り候得ども大いにい
たみ座上弐尺余りも潮上り久保村も家多く流失祇園山へ
逃上り助命いたし候なり大潮入る事弐丈三丈或所により
四五丈もあがり此辺は内ひろき処ゆえか鞆奥浦人家も恙
なく浅川牟岐浦は家壱軒も残らず両浦死人三百余人これ
有り宍喰浦にも家多く流失 溺死拾壱人ばかり四国西国
紀淡大潮入り北国東国は地震汐これなきよう承り及び候
地震ゆり候得ば大潮入るものと心得 老人小児は早く山
へ逃げ申すべく候 山遠き処は命の外に宝はなきものと
心得 何か捨て置き山へあがり申すべく さようの時分
さまざまと怪敷き取り沙汰これ有るものなりまようべか
らず天地打ちかえすなどおそろしき事ともさた有事有る
ものなり 大潮入る時分 一度山へ逃げ また山より大
事のもの有るなどいうて取り戻し死者多くこれ有り命の
外に宝なにか有るべし はやく山へ逃げる事肝要なり地
震は昔もこれあり大潮入り多く死人これあり候 宍喰浦
寺院の旧記を見るに左之通これ有候 後人のためになる
べき哉と書写置くなり 七 八年 拾ケ年の間はおりお
り宛ゆるなり 牟岐 浅川 山も近々候得ども油断ある
いは欲に何角持逃げ無用に万貫にも替へさる命をおとす
事はかなし 百年程経ては大変の有ものそかし永正九年
迄九拾四年 慶長九年より宝永四(一七〇七)年まで百四
年に成り永正以前にも度々地震大潮これあり候得ども何
年に大潮地震入るとたしかに記す人なきゆへ書記仕まつ
るべきようなし今書記する処は たしかなる跡書なるゆ
え後々の人の心得に成るべしと預け置くなり 初めに宍
喰浦之事のみこれあり宍喰ばかりに右様の変あるべきよ
うなし記し置くと置かざるとなりと知るべし
 宝永四丁亥(一七〇七)年十月四日震汐の前日より旱続
き 十月最初にて甚だ暖気 諸人ひとへもの着用いたし
候ほどにてその日は風もなく晴天にて雲もなし静かなる
日の事なるべし
 浦々溺死するもの数へがたし寺院は座限りて波ひたせ
りという この時は大地震の後はしばらくして大涛入り
来たれり そのむかしの大変は
 慶長九申(一六〇五)年十二月十六日戌刻(午後八時)洪
波来たる浦はもちろん正田村迄壱家も残らず人死する事
夥し宝永の潮は昼なり また それほどにもなし慶長の
大変こそ昔もおろかや波の入る前つかた所々の井水おの
ずと乾き湊口より水床の沖迄乾き水壱滴もなき干潟とな
りけるとぞ 今 願行寺の六地蔵のもとに古き石有り其
の時の粗記せりといへども 石の上下缺損して文義全か
らず慶長十巳(一六〇五)年正月に記せる年号明らかなり
其の文の中に半時ゆりと書けりその上々文は闕たり然れ
ば其時も地震せる歟(か) 今 古老の言 残せるを伝え
る者の申すは其の洪涛十六夜の出月をかくして山より高
く込入りける浜辺に竹薮のありける所にて浪ひとつ打ち
けるにこそ その勢すこしは弱くなり諸人右往左往 迷
う者 悉く底の藻屑となる 小山に逃登り百余人は助命
す今の愛宕山なりその山の八分目迄波上り浪来ると諸人
同音に泣悲しむ声ばかりにて活たる心地はなかりしとぞ
鳴呼 寔が共業所感の道理にや同じ波におもいがけなく
も溺死する人この心返すがえすもいたましけれ されば
命こそもの種よその時逃げおおせたる者は孫子にも言い
聞かせて慶長九年より今 元文弐年迄 百三拾年におよ
びても語り伝うるなれ不定の世界にも何も定りたる事な
しといえども取りわけ海辺の住居はとも言いつべきもの
歟(か)
(大日旧記聞書)○宍喰
一 当寺宝永(一七〇四~一七一一)年中の寺流失に追っ
て御建立有り大谷山の内 日比宇谷壱ケ所松浅木伐流
御下札下させられ銀五貫目(銀五〇〇〇匁 金壱両は
銀六十五匁として 金七十七両くらい 一両=米一石
くらい相場と考えたらどうか)に売払い致し恵田建立

其の時 蓬庵様御守り御本尊古来の通りに表具仰付けら
れ候様に申上げ候得共 百年以前の義 殊に裏表書等も
これなく不本(意脱か)之義 取次ぎ致し候面々 不伝に
思召さるべき義これあらば申分けこれなく寺の義申立
にて度々 諸木銀子等下置かせられ候ほか 明白にこれ
ありと仰せられ候て寺は即ち御建立仰付させられ候
右の因縁に付き御代之御国廻り遊ばさせられ候節
当寺に御昼休所と成り当大守様迄御腰掛けさせられ
御守御本尊拝し遊ばされ候由承り書記す也
一 当寺宝永(一七〇四~一七一一)年中願之御奉行杉浦
吉右衛門御代官平尾小左衛門御当職長谷川伊津吉其の
時義 京都へ御引越遊ばされ当寺紙面賀嶋垂水殿山田
織部殿へ相渡り早速仰出られ候 貧僧の義ゆえ殊に大
変の後 徳府(徳島)永々逗留難義致し老僧之根気尽き
候ゆえ御本尊の言立むなしく帰寺もっとも旧記聞事は
御上へ指上る長谷川氏御引越の時節ゆえ何角間違い不
運成る事 時節到来 心外の義と咄(はなし)有り
一 古来より御上使様御昼休所に仰付られ遊行上人又
は土州御使者留所 其外御境目御用但し寺御手当の
寺方普請共 古来の通に仕るべく度々仰聞かされ候
御用として太守様御国廻りの時分御上より普請仰付
けられ候遊行の時分は逗留中の諸遣道具金子三百匹
(銭貨で古くは十文が一匹であったがその後二十五
文になった)下され遊行より銭壱貫五百文(銭四~七
貫文=銀六十五匁=金一両の相場でかなり変動があ
った)下され郡御奉行伺い候て寺に納る御国廻りの
大手の垣竹角御番所下され追って銀子下されいずれ
も徳島へ御呼寄せ仰付けらる
一 御上の御所労の時 本末有り打寄り御祈禱御里よ
りも申来り候 木札相調日待或は護摩修行致し(後
略)
三 宝永の大地震 ―神官の記録―
 徳島県板野郡北島町瀬尾長氏所蔵の神官の記録の『宝
永四丁亥歳大変記』と『阿州宍喰浦獅子吼山真福寺住僧
大雲拝書・元文二丁巳(一七三七)年三月十四日』のなか
に宝永の震潮(ナヘシホ)の古記録があるので掲載する。
(五五三 土佐国 宝永四丁亥歳大変記 河上美啓記
元文六年成 安政二年写)
『安政二乙卯(一八五五)年二月写
宝永四丁亥(一七〇七)歳大変記』
宝永四歳(一七〇七)大潮之記
一 往古 天武天皇の御宇 白鳳十三甲申(六八四)十月
十四日 大地震の後 当国大潮入り人家はいうにたら
ず田地大半流失するよし古記に見ゆ
土佐の国というは本領五拾弐万三千七百三拾八石なり
今弐拾万石余という事は後の白鳳の大潮に三拾万石余
流滅す
宝永四(一七〇七)まで白鳳より一千弐拾二年に成る
一 宝永四(一七〇七)丁亥十月四日巳上刻(午前十時)よ
 り大地震起こりける 今日天気晴れ朝 暖気にて諸人
単物 帷子を着す その騒動言葉にも及ばず 坤軸砕
け怒るとはただこの時なり如何なる丈夫達者たりとも
一足も歩行ならす山々の崩れける土 畑四方に渡り忽
ち闇夜のごとくにしてややしばらく方角を失い男女老
若貴賎僧俗とも正気を失い啼きさけぶ有様は いずれ
の所にとどまらずや
大地われ底より潮水湧出る人家倒れ或は崩れ無難に有
る家は一軒もなし山里の貴賎 家業の為め山ヘ行きけ
る所に此の難に逢い崩るる岩に押され死するもの数を
しらず さて未の上刻(午後二時)大塩溢れ入り人家悉
く流れ死人いかだを組むがごとく牛馬猫犬等皆々死す
諸人山ヘ逃げあがり危急の死をのがるるも有り親兄弟
あしひに流れ死すれども救いて助かるに力及ばず 人
倫の道忽ちに滅す 道を守るも法を立るもただ 静
謐の時にゆり誰か為に啼くともなく山谷にひびき渡り
鳴動する有様 筆端にいとまあらず昼夜入り来たる事
翌五日暁まで十二度往来する 戌の刻(午後八時)より
潮来らず 但し洲崎(須崎)より三里沖に有り右が[盤|はい]
石より沖は海上随分静かなり是より内 大いに動く
予 山の嶺より海上を眺め居りけるに戸島と長者の渡
間ヘかけ潮ことごとくひつぎ暫くの間沼となる
此所ヘ小船弐人乗流れ来たりけるが壱人舟よりをりて
浪に入ると見えしが行着はみえず残る壱人は船に有る
よと見えつるが 否 大潮入り来たり右の船 行方見
えず成りにけり 其の後 其の人を聞けば壱人は新町
の何某 壱人は須崎浦ゑびすや佐五右衛門にて有りつ
る由 この時に当たりて財産器宝悉く流失するすさま
しきも哀れも悲しきもこの時に極まりぬ
一 此の地震五畿内東は豆州箱根を限り摂州紀伊等の海
辺は大潮入り九州の内も東南を請けたる国大潮入り四
国の内 阿州御当国(土州)専ら潮高く騰(あが)る
一 御当国の内 種崎より宿毛までの内浦々大潮入り赤
岡辺より上分の灘辺は少々ずつ入る所もあり
一 須崎浦ヘ来潮半ば山川筋は下郷のうち天神の上まで
四 五丁ばかり潮上る多野郷は加茂宮の前まで入る
吾井郷は為貞という所まで入り来たる右皆々川に付
いて潮溢れて出崎は在家皆々流失す押岡神田は出崎続
きの在家少々流失 池の内村在家障りなし
追加此の時池の内に限らず過半財宝を拾い得
俄かに 徳付き(とくづき 得をする 資産ができ
る)由 聞き伝う 以後 元ヘもとヘ戻るか皆々潰
れ難儀する
一 須崎浦 死人四百余人 かように流死するところの
謂(いい いわれ)を尋ねるに池より出る堀川の橋 地
震に落ちける所ヘ潮先き入り来たり渡る便これなく悉
く堀川ヘ打ち入れられ大半死す
尤も水練をよくする者か 或いは天運に叶いたる輩よ
り適々(たまたま)死をのがる
追加 この堀川橋 地震に落ければ渡る事はなり候
得ども川下より船潮に奥込みに入橋悉く池へ流れ入
る 後世の君子 此の川を埋められ先年の通り二ツ
石へ堀川明きしようになり候得ば 時変に助けと成
り申し記す この川を埋め申す時は私田畑余程出来
申すよう左候得ば御貢物余るばかりの違にては こ
れなきよう相見え申すべく候
一 この時流れたる在家の人々 山野に居りけれども所
縁由緒を求め流れざる人家を頼み急難飢寒をまぬかれ
目もあてられぬばかりなり
一 大潮に家財器物衣服等を流したに家を流さざる在家
の者とも是を悦び理不尽に拾い取り人の愁いを顧りみ
ず財類同事の有様 公儀へ聞こえ 所庄屋年寄に仰付
けられ急度(きっと)穿鑿させ銘々へ遣わし候 然れど
も隠し置き出さざる族 多きにつき 面々在家へ込み
入り断わりなしに家内を探す 古来より入魂(じっこ
ん)知音(ちいん)たりとも その訳けを忘却し旱芬尾
籠(かんぷんびろう)の高声を出し人倫五常の道を打ち
破り口論闘論に及ぶ 体(てい)たらく冷敷(ひやかし
く)も又 浅間敷(あさましく)哀れはかなく有様はた
だ人道の境界とは思われぬ是非なき浮世この時にとど
まれり
一 岩永より門屋坂までの間 往来ならずに付き鳥越坂
の峠より池の内村へ横道を通り下分村岡本へ越す笹か
峠という古道を往還の道として川(門)谷 山際道とな
る 諸役人の送番所も池の内村当分これ有り送夫の者
ども爰に詰める程無く午(正徳四(一七一四)年カ)の
秋 右 在家町本番所に帰る
追加 大潮前は大間より原町古倉へ灘通あり多くの
旅人 此の道々を往還して京町辺 賑々しく候とこ
ろ 右大潮に道潰れ其れ以後 道造る人もこれなく
候 右道の旅重は原町の何某と聴きし申すもの多年
思い付き壱人の繫力を以って諸人を自らださせ申す
由 今も潮干の時は灘道通るもの有り 今少し夫を
入れ昔の通りいたしたきものなり
一 池水の中に死人筏を組みたるごとくにこれあり 尤
も衣服か何ぞ見しるべき覚ある族は是れを尋ね便りと
せり さもなき者は譬(たとえ)父母兄弟なりとも面影
為り 果て却っておそろしき体(てい)となりければ求
むべき便なきものか 何をか印しに是れを尋ねんに街
道に啼きさけぶものおおけれども其のせん(詮)もなし
し池の内に浮き沉(しず)む死体鳶鴈(とび かり)是れ
を飛び交う有様は何たる地獄に是れをくらぶんや目も
あてられぬ次第なり これにより 公儀よりの仰せに
随い或村仮屋の後に長さ数拾間ばかりの大穴を二行に
堀りこの穴に取り入れ土に埋むいかに時節といいなが
らさてさて悲しく口惜しく何たる世にか成り行かんと
心痛まぬはなし
一 流れたるものども即餓におよぶに付き御公儀より御
救役を定められ所々に遣わされ御救米を給う男に三合
女に弐合 日数三十日或いは四五十日の間 面々家業
に取り付くまで下され小道掛材木等手寄りの山にて下
さるる
一 須崎浦より下浦御救役 田中善八
是は無足新御扈従(こじゅう)なり此の時の勤功に付
き同年十二月十六日新知弐百石下され小仕置に被仰
付後に田中関太夫と号す 又 知行加増あり五百石
に成り御仕置仰せ付けられるなり
一 此の大変に付き諸人の心落付かず あすをしらず命
と 路頭に迷う折柄なれば非道の溢れ者盗賊の族これ
あるべく御詮議のうえ 其の役人に朝比奈忠蔵
是も無足の新御扈従なり此の時の舟方置を以って同
年新知弐百石下され小仕置役仰せ付けられ程無く知
行加増五百石給わり御仕置役に成るその後また加増
千石に成り中老となる
一 此の時 盗賊溢れ諸人を悩まさん事を上(かみ)御稽
(かんがえ)なさせられ右 忠蔵を守護役に仰せつけら
れ其の上 在所 年寄りの郷士に仰せて昼夜廻番して
賊溢れを慎む
一 此の時の帝は 東山院 今上皇帝
一 将軍は 源 吉宗公
是は紀伊中納言紀伊守衛なり時に将軍家継公御子こ
れ無く御養君にあらせ給う享保元丙申(一七一六)八
月十三日正二位内大臣右近衛大将征夷大将軍に任せ
らるる
一 御当国大守 松平土佐守豊隆公
龍泉院♠心と謚(おくる)
宿毛住七千石 山内蔵人
一 御奉行 安喜住千石 五藤外記
城下住千石 後主計と号す 山内主馬
此主馬様中間御婚礼の儀に付き無意これ有り訳け立
たず知行召しあげ御城下の東山北へ蟄居 跡式(家
督格式)御舎弟様に下され 家老職 相違なく 今
の山内蔵人様 これなり然るに享保七(一七二二)年
寅八月 御帰参おおせ蒙むられ江府へ御供 彼地に
おいて御病死御当代太守様豊敷公御実(ママ)也
御郡奉行 祖父江作蔵 堀部七太夫
御浦奉行 安芸儀兵衛 近藤与惣右衛門
須崎浦庄屋 太次右衛門
後に右警衛と改む元文元辰(一七三六)夏
名字御免 川淵と言う
同老 海部殿勘ノ丞
但し今在家分なり後勤めず
同浜分老 助九郎
同原町新町鍛冶町 与八郎
一 此の大変に付き太守様御参勤不相調江府御改め仰せ
上げらる
御使者 山内 主馬 様
右江戸へ御書附
一 流失家 壱万千百七拾軒
一 潰家 四千八百六拾七軒
一 破損家 千七百四拾弐軒
一 死人 千八百四拾四人
一 失人 九百弐拾六人
一 流死牛馬 五百四拾弐匹
一 濡米穀 壱万六千七百六拾七石
一 流失米穀 弐万四千弐百四拾弐石
一 手船 百七拾弐艘
一 売船 百三拾六艘
一 損田 四万五千百七拾石余
右により御願い叶い御参勤壱ケ年御赦免
一 此大千世界を浮島か原と言伝し事明らか也 大地震
の後 安喜郡津五室津の湊 地形上る也
先年 大船荷物大船入津自由成る所々 大変の後 荷
積み大船入る事ならず此の湊石の切抜にて底まで石な
る故 泥土に埋まるという事なし然れは地形上がりた
る証拠分明なり
一 今在家町の事大変前右二ツ石より沖之方十五
六間 町並みなれども大潮に地崩れ海三百間余 地方
(じかた)へよる町に相成らざる故 只今の北へ町割り
仰せ付けられ面々住居する
大変前は大橋之横町南輪に並松有り人家これなく橋
の詰め東の方 今の谷屋の還に加助と言う者(吉屋
と言う)
一 大変より前 大澄の北両方とも人家これなく東の方
並松 今の畠の所 みな芝原なり中頃 高知北山田の
内 須郷と言う所の百姓十蔵と言うもの池を作式に申
請是れを手作にせんが為め乱の宮の前 東の芝原に
家を建て居る 変以後は是も故郷へ帰る
一 今 在家町 今の町筋二ツ石より宮原へつづき大木
の松林にて日あたらす物くらき所にて子供は恐れ壱人
も往来せず右の松原跡只今の町並みなりこれにより今
の町の後の畠に成りたる所 皆々芝原にて蓑虫の名所
なり大変の後作目となる
宝永五己丑(一七〇八)年十月町割有り
右町割有御免方
町割役人 諏 訪 半兵衛
追加 弓石 変前は人家のたぐいに少々岩小路の脇
に有り 大変に地形堀崩れ大岩弓出則ち今の弓石な

一 西今在家町先年の町より十間ばかり山の手へ寄り西
之町端 五郎右衛門屋敷は 今 傳助親父也 今の川
向い中須の辺也紺屋安右衛門今角の弥五平親也
与惣兵衛前に井戸有りけるが只今の川向の辺に其の井
此の前方に見えたり
須崎浦八幡神輿流失の事
一 須崎浦八幡の神輿十月四日大潮に流れける伊豆の国
下田浦の漁船因(もと)は沖間にて是れを拾い見れば神
輿なり
疎にすべきにあらずとて前社を拵え新八幡宮と祭りけ
る 然るに拾い得たる漁夫時運得けるにや大漁をして
徳付けるより遠近の浦々是れを尊み崇めける然るとこ
ろに当国(土佐)の田野浦の売船江戸へ渡海の折柄 下
田御所改めを受けるに入津する其の砌 件の旨を聞き
後の社に行き神輿の内の書付見れば土州須崎浦八幡神
輿御寄進施主の姓名を記し有是こそうたごう所にあら
ず 我が同国の神輿也 いかでか其の侭におくべきよ
うなしとて所の役人所へ子細 相断り是を迎い帰らん
事を強いて願いけれども浦人是れを惜みなり なかな
かむずかしくありけれども器物とは違い神輿の儀につ
き終には任望(まかせのぞみ)もらい得たり右 田野浦
船 東武より遠揖の刻喜志和浦の弥次右衛門船行き合
い須崎近浦なるにより神輿を言伝え差し越し下着して
右の趣きを申し来たり神職の面々迎へに参り受け取り
来たる 今の八幡の内殿に籠めこれあり
修覆はなし
右神輿伊豆の国より還行の節伊豆下田問屋役人送り状
の写し其のほか右の来暦くわしく書附け八幡宮宝殿に
木札に記し籠め是れあるなり右札の表に大変の節当所
の一巻等くわしく書あり
右施主川渕太次より筆者に標 八郎兵衛とあり
一 当八幡宮は津野観忠公御建立代々なり大変哉 流失
の宮まで則ち再興の宮なり観忠公御寄附の品数多これ
ある所大変に流失 今こづか鎧一領残り切れに有り
大変に灘より拾い集め申す由 惣毛引と申すおどしと
申すなり変の前の宮まで㊀の御儀あり
(中略)
右 須崎浦人木屋嘉平所持持参に付き借り写し置く也
安政二乙卯(一八五五)秊二月吉日写す也
『阿州宍喰浦獅子吼山真福寺住僧大雲拝書天文二丁巳
(一七三七)年三月十四日(抄)』
(注、67頁下1以下と同類、省略)
(地震 津浪 嘉永録)
宝永四(一七〇七)年亥十月四日巳の下刻(午前十一時)
より午の下刻(午後一時)まで大地震にてその日は殊更
天に雲少しもなく四方に風絶え 何となくただ暖気止む
ことなし しかるに地おおいに震い所々多く地割れ人々
歎くこと限りなし ややありて大汐来たる いずれも
山々へ逃げ行く 此時となく右星より毒下りて井戸へ入
り此の水を呑む時は たちまち煩うなりと評じけるに付
き夜分は井戸に蓋(ふた)をいたしけり これによりて当
浦八幡宮御神前において疫病退散の御祈禱あり寺院にて
は大般若経を読誦しまたは舟を造り一七日の間不動明王
の文を唱え昼夜町内を持ちまわり結願には右舟を海中に
浮べ流しける
 まさに神仏の御加護ありて病気も次第に納まり 彗星
も九月末のころは戌(西北西)より申未(南西)の方へ廻り
薄くなりて消え失せり その京都にての御歌
篁(たかむら)の空に出たる彗星(ほうきぼし)はくも
のもなき君の御代かな
君が代になにゆへ出たる彗星塵も芥もはくものはな

 此の度の彗星 穂先白し 是れは難病生ず印なりと拾
弐三端の廻船ならびに漁舟拾三艘 大宮の方へ流れ込み
山は東光寺山 愛宕山 手倉山 山の神 観音堂等 老
若男女声をばかりに子を呼び親を尋ねおもいおもいに呼
び歓ぶこと何にたとえん方もなし 此の時 汐の高さ壱
丈余にして町は多善寺の内にて漸く六七歳くらいのこと
なり 善祥寺近所は座上にて壱尺位なり依りて鞆浦は家
の損しなく人壱人も怪我なし
 しかれども三度まで火起こり大勢して取り消し納めし
かども終に谷町三軒消失せり その後地震は幾日という
ことなく昼夜の差別是れなくゆり沖の方は折り折り鳴り
渡り山は大筒(注 大砲)の響くごとくよりて数日 山に
て仮家居いたし暮らしける
 大地震の時は出火用心すべし また大汐と心得べし
ただ山へ逃げること第一なり 必ず舟に乗るべらかず
諸方にて船に乗て死したるもの多し
 この時 他浦の様子を聞合いけるに 宍喰には死人拾
壱人にして家壱軒もなし 浅川浦は百七拾余人死して家
壱軒もなし 牟岐両浦百人余死して是亦家壱軒もなし
其余浦々家ならびに人損したること多しという
 これは鞆浦に筆記これあり後年の心得にもならんかと
宍喰より鞆浦までのありさまを撰び写すものなり
出典 日本の歴史地震史料 拾遺 別巻
ページ 66
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
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