[未校訂]東成瀬地震
昭和四五年(一九七〇)一〇月一六日、
午後東北地方全域と北海道、関東、中
部地方の一部を襲った地震は翌一七日も東北地方では、
かなり大きな余震が続いた。本村では住宅の四分の一に
あたる二三〇戸が損壊したうえ三人が手足に軽いケガを
している。一七日の余震、地鳴りは二、三〇分おきに続
いた。この地震で最も被害の大きかったのは岩井川集落、
肴沢集落の両地区であった。岩井川地区では村道の路肩
が一〇ヵ所、四〇〇㍍にわたってくずれ、至るところに
幅五センチほどのヒビ割れが生じた。
次に地震発生にかかわることを項目ごとに述べてみ
る。
その一 名称 普通「東成瀬地震」といっているが正式
には「秋田県南東部地震」という。
その二 震度 岩井川、肴沢地区は震度五。マグニチュ
ード六・五であった。
その三 余震 地震後の余震は暫く続いた。この余震回
数は必ずしも東成瀬地震とかかわるものではな
いが、岩手県湯田測候所の調査では一〇月一七
一回、一一月五二回、一二月二二回、一月一二
回、二月一三回、三月五回となっている。
その四 地鳴り 焼石岳(一、五四八㍍)では地震後から
異常な地鳴りが続き、住民を大いに不安がらせ
た。
その五 被害 家屋被害では全壊一九戸、半壊四九戸、
一部破損一八五戸。被害額一億八〇〇〇万円。
柱が折れた家、壁がはがれ落ちた家、傾いた家、
雑貨屋では商品や食器類の落下、タンス、窓ガ
ラスの破損等が家中に散らばって足の踏み場も
ないほどであった。
その六 断水 タンクがこわれて二〇ヵ所で断水した簡
易水道は翌日になっても復旧せず、早朝から自
衛隊の給水車に頼った。
その七 落石 肴沢土谷弁蔵宅寝室に高さ四〇〇㍍の裏
山から直径二・五㍍の岩が飛び込んだ。肴沢橋
を渡って間もない地点の裏山から杉林をへし折
りながら県道(現国道)わきの水田までころがり
落ちてきた直径三メートル余の大石が二個。村
では昭和四六年一〇月一六日、地震一周年を記
念して「災害は忘れたころにやってくる」との
タイトルの標識を建てた。
その八 不幸中の幸い 関東大震災で被害を大きくした
のが火災発生であったが、本村の場合、一件の
発生もなく被害を最小限にくいとめたのは、ふ
だんの防災についての心構えができていたから
であろう。
その九 対策 地震発生後、いち早く村当局に地震対策
本部を設置し、その対策に当った。地域住民の
不安をなくすため、広報車で全村くまなく巡回
し適切な情報を提供した。翌一七日、県では災
害救助法を適用して救援対策を講じた。小畑勇
二郎知事、大学の地震研究班、報道関係者多数
来村。一〇月二〇日、岩井川小学校を会場に、
災害復興総合相談所を開設、相談者一〇〇余人。
その十 善意 県、他町村から見舞者多数来村。県内は
もとより全国各地から救援物資見舞金等がとど
いた。
なお、県外でも被害があった。岩手県和賀郡湯田町で
は、湯川小学校の全焼、県道など一三ヵ所で土砂くずれ
や地盤沈下、家の半壊六戸、七四〇戸で給水が止まるな
ど、かなりの被害があった。
(朝日新聞 四五・一〇・一八)