[未校訂]天災
《六郷地震》
天変地異と称されるのに地震、台風、洪水があります
が、そのうち、地震については明治二十九年(一八九六)
八月三十一日の六郷地震は近来にない大災害でした。角
館誌によれば正保元年(一六四四)、延宝六年(一六七八)、
元禄七年(一六九四)、宝永元年(一七〇四)、安永元年(一
七七二)、文化元年(一八〇四)、同七年、文政十年(一八
二七)、天保四年(一八三三)が記されていますが、いず
れもこの地方では六郷地震ほどの強震ではなかったよう
です。
長信田村史話によると、半月程前の夕食時家が鳴りな
がら揺れたとあります。地震の強い時は肥塚(たい肥)に
上れば良い。などと話をしながらその日は終わりました。
三十一日は盆の二十三日にあたり、午前九時ごろ相当に
強い地震があり、窪堰の水がにごってきた。家では三日
盆というので一日休み、午後から自分達が使うわらじや
荷縄などをなったりしていたところ、午後二時ころ弱震
が起り次第に強さを増し五時ころ西方から雷のような音
と共に、田の稲は波のように揺れていた。直ちに肥塚に
上ったら土蔵の壁土は落ちて土煙が立ちのぼり、馬は馬
屋の中ではね、家は東西に揺れて戸は外れ、若勢達は飛
び出してきたが、一人は前の堰に放りこまれ、一人は杭
につかまっている。恐ろしいの恐ろしくないの話でなか
った。
二、三十分もしたら自由に歩けるようになり、家へ入
って見たらご飯鍋はツルが外れて炉より六尺も投げ出さ
れ、半分もご飯が散らばるなど惨たんたるものでした。
どうにか夕食を終え外に出て見たら、所どころに火の手
があがり、火災の発生している様子が見えました。翌日
田んぼを見たら稲は一面泥にまみれている。朝から皆、
田に出て三、四株ずつわらでつないで稲を起す。この作
業に幾日もかかった。その数日後には大雷雨があり、泥
だらけの大水も出た。二日ばかりで晴れたが、山という
山は大小のくずれた傷跡が現われた。この年は大凶作で、
食糧も乏しく食べられるものはなんでも食べた。とあり
ます。
藤沢与惣治(田ノ尻)覚え書きによると、この日は二百
十日にあたり、朝から激しい暴風となりました。午後の
強震の時は早速肥塚に上った。姉はご飯を炊いていたの
で、火を心配し逃げおくれて家の北に出たが、逃げる途
中揺られて池に落ちた。皆無事でしたが、山は見ている
うちに崩れ落ち、地肌が露出している。夜は火事で空が
赤く染まり、ただ驚くばかりでした。翌日は水が止まり、
溜り水でご飯を炊き、赤く染まったにおいのするのを食
べた。我が家にけが人のなかったのは幸いであった。と
あります。
白岩村郷土誌によると、翌日六郷方面より白岩村に帰
宅途中、横沢村の前日水を飲ませていただいた家による
と、おばあさんが地震のため亡くなっていた。実に残念
なことである。斉内は思いの外弱かったと見え、倒れた
家屋は二、三戸の古家のみであった。とあります。
この震災によって多くの家が潰れましたが、現在残っ
ている民家(曲り家)の大半はこの後に建築したものとな
っています。このような大惨事となりましたが、政府は
税金を免除し、県、郡では救助米や金銭その他を募って
災害にあった家庭に贈りました。また天皇陛下からは見
舞金として片岡侍従をして長信田村へ五千円を下賜され
た。と、長信田村史話にあります、この時の看板(立寄所)
が高見久右ェ門家(築地古館)に保存されています。
六郷地震被害状況
(秋田震災誌による)
区分 長信田村 横沢村 計
全潰家屋 一二〇戸 二六九戸 三八九戸
半潰家屋 四〇戸 九六戸 一三六戸
破潰家屋 一七〇戸 一六九戸 三三九戸
計 三三〇戸 五三四戸 八六四戸
即死 一六人 九人 二五人
負傷 三二人 二二人 五四人
牛馬即死 九頭 一〇頭 一九頭
牛馬負傷 五頭 二頭 七頭