[未校訂]六 明治二十九年六郷地震
明治二十九年八月三十一日(旧七月二十三日に当り二
百十日なり)朝来東南風あり。午前十時に至り天候何と
なく不穏にて、風遽に起り漸次勢を逞うして、家屋を破
壊し樹木を倒し、屋根鞍、大口等を飛ばししを見ても其
風力の凡ならざるを知るに足らん。人心恟々速かに風の
凪ぎんことのみ祈りしに、午後三時に至り風全く止む。
此の風の為に更ぬだに不作の喧びしかりし時、又々二割
の害を蒙れりと嘆ぜり。
午後四時に至り、叔父近伊兵衛来りて鳥海方面に於て
鳴動の心地せりとて、時々耳を欹つ。須臾にして地震起
る。「何だ地震だナ」と何はとも無意識に外出せしに、
分時にして止む。狼狽せし事の悔しさよなど語りて閑談
に時を過ししに、午後五時二十五分に至り、鳥海方面に
於て轟々然鳴動と同時に大地震動し、歩するに難し。周
章皆々外出せしに、母脚気にて病床にあり。叔父曰く「母
出せ母出せ」と余も亦其軽率に外出せしを恥じ、蒼惶母
を後の出入口に迎え南方の空地に立ちて、父母、叔父、
弟妹、妻同時に面色灰の如けん。高らかに誦文を唱えて
震動の静まらむ事を祈れり。家屋は揉むが如くに動揺し、
樹木は左右に打振られ、家族手に手を取りて四面の惨状
を見居りたりしに、村内は唯々ドドドドドド……と大雑
音の錯交を耳鳴りの如く知覚し、一時は沈まり返りて無
人の境に似たり。此の間僅かに一分半、其の心中の劇変
夢裡に彷行す。突如奮起有職の身、夏期休日なりと雖も、
御影のまします校舎の空を眺め震動の止むを待ちて家に
入り、炭火に鍋を蔽い飲食物を持出せり。柱は傾き棚の
物落ちて、ビール十数本を破損せらる。戸障子皆斜に裂
け名状すべからず。馳せて学校に至れば朽ち果てたる土
蔵の校舎依然として破損なく。実に案外に堪えざる也。
此の大震動ありてより凡十二、三回の強震絶えず、震動
毎に必ず地下に鳴動あり。其の不快不可謂也。父母の命
により安心として南の空地に杭もて柱となし、戸を床と
し筵を布き障子を以て天井となし、竃を出し米をかしぎ
其の夜は露宿せり。
夜中も震動あること亦同じ。此の夜東北に方りて大火
あり。潰家の焼けるなるらん。死傷人も多かるべしなど
惻隠[轉|うたた]愁然たらずんばあらず。村内の露宿略九割なり
き。此の夜曇天雲斑なり、魚鱗の如し。南隣清水英孝は
二ツ橋高橋安吉、鍋倉掵村菅原養太郎三氏、庄内三山参
詣にて不在なり。英孝妻千代我家族と同所に臥床せり。
宮ノ前大堰橋北三間の処地割れ青泥湧く。長さ二間幅五
寸より一寸位までなり水甚だ冷也。
翌九月一日曇、雲斑なること昨日と変りなし。午前五
時劇震あり引続き微震数うるに遑あらず。此の夜も露宿
す。噂あり六郷千屋等大破焼失地震の中心点は真昼岳な
るべしとも、駒ケ岳なるべしともいえり。
九月二日曇、雲斑なること異なるなし。何の現象か、
午前二時二十五分劇震、微震絶えず。此の夜も露宿す。
九月三日曇、雲斑なり。此の日も震動十数回。此の夜
雨降り来り家に寝たり。左の報道あり、
仙北方面だけ 六郷 全潰家 九百余戸
千屋 〃 五百六十戸
大曲 〃 二百余戸
畑屋 殆んど 全村潰
以上 死亡者 百十七名 傷者多数
平鹿郡吉田、旭、睦合等は被害多く死者七名
雄勝郡湯沢町田町、駒形村等被害甚しと。
九月四日降雨。強震微震不絶、浮説あり蜚語として一
笑に附せり。九月六日に大劇震ありて去三十一日よりも
強しと。
九月五日降雨。午前四時三十分強震。
九月六日降雨。午前〇時強震、午後一時五十五分に至
り浮説の如く劇震起り棚の物皆転落し、村人外出道路に
充ち喧々囂々人心恟々然たり。
洪水起る
九月七日八日九日まで降雨不止。雷電凄まじく濁流
[激湍|げきたん]志摩の土手を破り、志摩、左馬、睦合一帯浸水被害
夥し。同十日十一日雨猶不止、浸水被害更に甚し。
暴風起る
九月十二日東南の暴風起り、さらぬだに傾きかけし建
物に壁なきに於てをや。之が為に潰倒せしもの亦多し。
天変地異一時に起る災厄恐るべし。
本日まで震災被害調査 雄平仙三郡にて、死者二百六
人、傷者五百八十三人、全潰家一万千六百八十余戸、土
蔵其の他半潰四百八十四棟とあり。以後強震記するに遑
あらず。
此の被害畏くも、叡慮に懸けさせ給い、片岡侍従を震
災地視察に差遣せられ、九月二十日侍従増田、横手附近
御視察あり。横手町平田利助方を御旅館と定められ、翌
日仙北各地の御視察あり。
(古四王神社)
明治二十九年八月三十一日(旧七月二十三日)午後五時
二十五分未曾有の大地震あり。土田重蔵寄進の石鳥居左
右の柱三尺位を残して、西方に倒れ散々になりしは、惜
みても猶余りありと謂つべし。不幸中の幸ともいうべき
は、鳥居の東方下にある石の唐獅子に倒れざることなり。
社殿奥殿は何等異状なく唯畳石の羽目一分位の隙を生じ
たるのみ。