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項目 内容
ID J2601642
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1896/08/31
和暦 明治二十九年八月三十一日
綱文 明治二十九年八月三十一日(一八九六)〔秋田・岩手〕
書名 〔千畑村郷土誌〕○秋田県千畑村郷土誌編纂委員会S61・2・28 千畑村発行
本文
[未校訂]九 陸羽(真昼)地震
 明治二十九年(一八九六)八月三十一日夕刻の午後五時
過ぎ、秋田・岩手両県を中心とした東北地方を大地震が
襲った。これが陸羽地震である。
 この地震の震央は、秋田・岩手の県境に位置する奥羽
山脈の一角、真昼山地であった。そのため地元では真昼
山地震とも呼んでいる。地震の大きさを示すマグニチュ
ードは七・五。東北地方の内陸部に生じる地震の中では
最大規模のもので、有感地域は東北一円から北海道、関
東、中部、関西地方にまで及んだ。
 陸羽地震は、明治二十四年に濃尾地方(岐阜・愛知県)
を中心に発生したマグニチュード八以上の巨大地震に次
ぐものとして注目され、中央から我が国地震学の先達と
なった諸先生が現地調査に参加された。[巨智部|こちべ]忠承理学
博士は真っ先に訪れ、その結果を「秋田県震災概査報告」
として発表。震災予防調査会からは、後年、東京大学に
地理学教室を初めて開設した山崎直方理学博士が、当時
まだ学生であったにもかかわらず派遣されて「陸羽地震
調査概報」を発表。大正二年(一九一三)には今村明恒理
学博士が更に現地調査を行い、これまでの調査に補足し
た報告書を「明治二十九年ノ陸羽地震」として発表し、
各々地震の解明に大きな学術的役割を担ったものであっ
た。
 報告書で明らかになった地震の痕跡は、断層崖となっ
て真昼山地を中心とする奥羽山脈の西麓の南北(横手~
生保内)六〇キロメートルにわたっており、現在でも確
認できるのは、千屋断層・太田断層・白岩断層などと呼
称されて四〇キロメートルに及んでいる。また岩手県側
の沢内村には川舟断層として現存している。
 陸羽地震の大きな特徴は、八月三十一日の大地震に先
立つ一週間ほど前から前震活動が非常に活発で、人々は
不安と共に警戒心を強めていたこと、震源地が人家の間
近で、生活舞台がマグニチュード七・五の大地震の震央
に入ってしまったことなどによって、地震前後の地学現
象が人々によって観察されていたことである。その観察
具合が「秋田震災誌」(千畑村郷土資料館所蔵)等に記載
されているので、参考となる個所を拾ってみる。
○八月三十一日、当日は天色暗澹凄愴人を襲ふ気あ
り。午前より数回の震動が続き人心[恟々|きょうきょう]として定
まらず。午後五時を過ぎて山岳も崩れんばかりの轟
然たる大音響と共に烈震となり地動波浪の如く襲
来、一瞬時にして家屋倒潰、人畜死傷、石飛び木折
れ地盤亀裂し人々[匍匐|ほふく]して難を避けんとする大惨況
を現出するに至った。(秋田震災誌・千屋、畑屋地域)
○東山真昼嶽附近一帯震源地なりと云う。夜間噴火
口より青き煙り立つを見る。又同山附近(小杉崎)及
諸所の山岳崩壊し、沢や山、水に埋りて堤を成し池
沼を出すもあり。当大坂は真昼山下なるも地盤岩石
の為か家屋の被害僅少なりといえども、潰家六戸、
内一戸焼失、破損家屋二十戸なり。(大坂、室谷家
の記録)
○十月一日(旧八月廿五日)極晴天。北方の地震跡見
に行。六郷より善知鳥坂の観音様へ参詣、御宮の境
内北南に割れ幅四尺五寸、長さは南方の山下まで割
れ、其下田面平地のところ東方一丈五尺高く、東京
より巨智部博士来りて見るに、この通り五里の間や
はり高くなると云う事也。右山西南より同村小左ェ
門と申者の家まで山岸どおり北へ行くこと十町ばか
りの処、山崩れ二丈上より稲あり。皆割れ夫より十
四、五町北へ行候処、同字五郎左ェ門家の北の山割
れ走り、田面稲二千刈を埋め、それより竹原の山端
行く、田側皆同様。右村の屋敷々々より土掘り出し
たる事如山。それより千屋村に至る。花岡の平左ェ
門と申者の屋敷、山より土走り来、不容易難渋と見
受けたり。小森の重四郎と申者の田地、千五百刈り
の処、山新たに現れたる如く、山岸は皆一丈も二丈
も上り候。善知鳥坂より一丈下迄或は道あり、或は
道山の下になり、一円不知。一丈下の山散々に割れ
てあり鞠子川に新たに滝二ケ処出現……。(仙南村
金沢西根佐藤家菻沢日記より)
 その外、善知鳥沢上方赤石台の山あいは、山上半
分割れて沢へと崩壊し善知鳥沢川の上流を遮断して
沼となり水の深さは何十尋とも知れず、上は真逆坂
の下まで淀むという。この沼いつ破れるとも知れず、
万一の時は山津波の如き濁流が奔流となって下方の
部落一呑は必定とばかりに恐れおののき、こぞって
 高台へ避難した騒ぎもあった……。
このように、大地震の中心部に位置する仙北郡地域の
○被災状況
区分
全体
内 秋田県
内 千畑村
付記
死者(人)
家屋全潰(戸)
山崩れ(所)
田畑(町)
二〇九
七、七九二
三、六七七
二〇五
五、六八二
九、八九九
三、六四二
五五
六六二

三四九
旧千屋三四・旧畑屋二一
数は少ないが、一か所当たりの規模が大きい
○仙北東部地域家屋被害状況
区分
戸数
全・半潰(戸)
割合(%)
付記
千屋村
畑屋村
高梨村
横堀村
長信田村
横澤村
飯詰村
金沢村
六郷町
五六五
四二一
四二五
三八四
三五九
四六〇
三二五
七八八
一、一二五
五三〇
三七一
二八四
三五九
一三四
二七五
二六五
二三六
八三五
九三・八
八八・一
千畑村
六七・〇
九〇・八
仙北町
三七・三
五九・八
太田町
八〇・一
三〇・〇
仙南村
七四・二
中でも、特に本村を中心とする東部地域と岩手県の和賀
谷に大災害が発生した。その主な状況を数字で示すと次
のとおりである。
 仙北東部各町村の家屋の倒壊状況をみると、真昼山地
北麓の長信田村と平野部の横堀村を比較すれば、震源地
より遠い横堀村の家屋が、三倍近い倒壊率である。それ
は山麓で地盤の固い長信田村に対し、ヘドロ状地層の多
い軟弱な横堀村の地盤が、文字通り波浪の如く激しい大
きなうねりに襲われたことを示している。この例は、今
後の平野部における地震対策の上で特に考慮すべき教訓
である。
 近年、地震予知は国家的課題となっており、特に都市
部における住民の関心は極度に高まっている。
 陸羽地震の地震断層は、千屋断層を中心に今なお当時
の状況を語ってくれる断層として再び注目された。東京
大学地震研究所・松田時彦、通産省工業技術院地質調査
所・山崎晴雄、広島大学文学部地理学教室・中田高、都
立大学理学部地理学教室・今泉俊文の諸先生方は、昭和
五〇~五四年にわたり数度現地を訪れ、当時の状況の聞
き取り、古い資料の収集、現場確認などの基礎調査を行
った。
 昭和五十七年(一九八二)、国の「地震予知の推進に関
する計画」に基づく「地震断層発掘調査」を実施する候
補地として千屋断層が選定される運びになる。
 その理由は、地震の原因については関東大震災が発生
してから昭和の半ばまでは、
一、地下のマグマが爆発する火山活動
一、地層の下に空洞があって陥没する
一、断層の地震によってできたもので、原因ではない
といった説が併立して懐疑的な時代が続いていた。昭和
四十年代に入ってから、これまでの観測・調査結果とコ
ンピューターの進歩から、地下の地盤が切れて動く(断
層活動)、その震動が地表には地震となって現れること
が世界の定説となった。このように地震は歴史の浅い学
問であり、更に具体的に研究するには、実際の断層を掘
って見ることである。しかも、できるだけ大きく新しい
断層がよい。それが千屋断層であるということになった。
 すでに現地踏査を行って、論文「一八九六年陸羽地震
の地震断層」を発表している前述の東京大学地震研究
所・松田教授をはじめとする四名の先生方を中心とし
て、東京都立大学・広島大学・横浜国立大学・茨城大
学・法政大学・東北大学・千畑村教育委員会で調査団を
構成し、昭和五十七年九月二十三日~十月二十五日まで
の約一ケ月間にわたって、千屋字中小森の田地約一〇ア
ールに接続する断層崖や地下の変動について発掘調査を
実施した。調査に当たっては、土地所有者照井文蔵の深
い理解と協力があった。
 調査のねらいは、断層の地表と地下とのつながりの形
態、陸羽地震以前の地震の有無と痕跡の発見である。そ
の結果、断層崖からは当時の水田と、その上に地下の岩
盤(新第三期系海成岩)が隆起して覆いかぶさっている
「逆断層」の状態が現れ、隆起した高さはほぼ三メート
ル前後とわかった。当時の人が「稲田土に埋まり山新た
に現れたる如く」と評したようにである。
 地中の層からは、当時の水田の表土層や粘土層、砂利
層などが地震によって段違いに食い違って曲がっている
状態と、明治二十九年以前の地震による断層も発見され
た。この発見は、大地震はある周期をもって発生すると
いう学問的推論を立証したものである。
 このことを更に地上の地形で表しているのが一丈木公
園の丘陵部である。現在は下の地面より一八メートルほ
ど高いが、もともとは段差がなく自然な勾配で扇状地を
形成していたものがこれまでの数回の地震活動によって
隆起し、現在の高さになったものである。地層に残って
いる古い木片などから推定すると、約二万四〇〇〇年前
は平坦地であった。明治二十九年に隆起した三メートル
の高さを基準にして算術的に割り出すと、三〇〇〇年前
後を一つの周期として大きな地震を起こす千屋断層であ
り、そうした地震活動によって隆起形成された一丈木周
千屋断層(千屋字小森) ※隆起した地面高(a↔b 3m)
逆断層
正断層
辺の丘陵地であることがわかることになる。
 当時の写真でも明白なように、逆断層性地震としての
千屋断層は、この種のものとしては我が国最大であり、
世界的にも貴重な存在である。しかも地下の状態がこれ
ほどはっきりしている所は少ない。
 発掘調査後、現地視察をしていただいた国の文化財保
護審議委員渡部景隆先生(筑波大学名誉教授)、秋田県文
化財保護審議委員長藤岡一男先生(元秋田大学教授)をは
じめとする諸先生方から、当区域には断層隆起を証明す
る一丈木丘陵地帯、釜淵川の両岸に見られる自然露頭の
断層線、小森部落住宅地内の著しい段違い等地震断層の
発生状況と形態が地形学的にもよく観察できる学習地と
して、まことに好適地と評されている。
 また、地震断層の生きた研究の場として、あるいは大
災害をもたらした歴史の教訓者として、各方面からその
保存を希望する声が高く、昭和五十八年六月秋田県教育
委員会に天然記念物として指定保存ができるよう申請、
翌五十九年三月十日、千屋断層は次のとおり秋田県天然
記念物に指定されている。
秋田県教育委員会告示第四号
 秋田県文化財保護条例(昭和五十年条例第四十一号)第
三十四条第一項の規定により、次の天然記念物を秋田県
指定天然記念物に指定する。
昭和五十九年三月十日
秋田県教育委員会委員長 小林忠雄
秋田県指定天然記念物
種別
名称
所在地
所有者又は管理者
天然記念物
千屋断層
仙北郡千畑村千屋字中小
森一四〇、一四一、一四
二、一四三、一四四、一
四五番地
仙北郡千畑村千屋字内沢
一番地のイ、ロ、ハ、ノ、
二番地のイ、ロ、ハ、ニ
一級河川赤倉川左岸
仙北郡千畑村千屋字上
小森一〇五番の一地先
から同字五八番の二地
先まで
一級河川赤倉川右岸
仙北郡千畑村千屋字上
向野七七番の一地先
照井文蔵
建設省
十 畑屋震災記
 次の引用文は「我が村の歴史」(深沢多市著)に収録さ
れている畑屋村震災惨状記から、ある程度読み易く抜き
書きしたものである。この記録は、地震発生時の状況と
その後の対策が明らかな貴重な資料である。
明治二十九年八月三十一日
畑屋村震災惨状記 高橋石五郎 記
 明治二十九年八月三十一日、一日も忘れられない記念
日なり。この日は朝より天色暗澹として凄愴の気を含み、
加うるに数回の震動あるを以て人心恟々たる折柄、午後
五時三十分頃に至り山岳も崩れんばかりの勢いにて、劇
烈なる震動襲い来れり。
 この間、五分を過ぎざる間に早や既に家屋土蔵の如き
は全く倒れ、石は飛び、木は折れ、地盤亀裂して容易な
らず。清水は濁りて泥水と化し、突然一場の修羅界を現
出しむ。人々、家にある者は逃路を失い、親は子を呼び、
子は親を尋ね、愁嘆の声四方に発し、老若男女傷を負う
者、餓て食を乞う者、哀叫力尽きて倒れる者、満目の光
景悲絶を極め、人をして茫然自失するこそ外なかりし。
 急激なる震動一瞬にして全村を崩潰せしむ。多くは崩
壊後辛うじて逃去せりも、土蔵剝落の土塊、又は梁柱に
圧挟され他の援助によりて、漸く一命を拾い得たる者数
多くあり。また夕食の時刻なるを以って炎々たる炉火を
消えしむる暇なく火災に罹りしものさえあり、その惨状
筆舌に盡し難きものなり。
 村役場、巡査駐在所、畑屋尋常小学校、八幡社、熊野
宮、西空寺等は非常の破壊、[就中|なかんずく]小学校は全壊なり。
 ことに高橋亀蔵宅地の如きは、地盤亀裂し、その隙間
四、五尺に及び、これより泥水噴出して、洪水の如くと
なり水嵩二、三尺となる。
 また田畑の荒廃は言うに忍びざる惨害なり。水田の如
きは稲穂泥中に埋没し三、四割は減収となるべし。畑も
害を受けたるも、水田に比べれば少なし。
 窮民救済策については、役場員、駐在巡査、学校職員
等日夜奔走怠りなきを以って、大いに罹災者に便を与えたり。また震動なお止まざるを以って雨露を浸して戸外
に座臥するがため、賊をして家財の掠奪あるを憂ひ鈴木
巡査は徹夜巡視を怠りなくその辛苦思うべし。
○震災後の日記(明治二十九年九月)
 一日、晴天 茫然自失の如くなり。
 二日、晴天 参事官松田啓太郎、郡長畑千代記、憲兵
四名来りて救護策を講ぜり。
 三日、好天 早朝、日本赤十字社員、得業医学士正八
位秋山勇之助、看護婦二名を率いて出張せり。駐在所の
門前に仮病舎を設け医療に従事し、大いに便利を与えた
り。開け行く御代のイトイト、アリガタキコトナリ。こ
の外、秋田県警察部長田中義達、池部大曲警察署長、阿
部郡書記、秋田新聞記者片岡佐一郎、遠藤郡書記、渡辺
赤十字社員等来る。近藤秋田県巡査、補助の為、本日よ
り畑屋村駐在所へ参りたり。大曲村榊田清兵衛、下川六
郷警察署長も来る。
 五日、雨天 秋田県参事官横山勇喜震災視察として来
る。
 六日、雨天 榊田県会議員、大久保参事官来る。
 七日、雨天 平山秋田県知事、畑仙北郡長、村山県会
議員等来る。
 八日、大雨 畑山県会議長震災視察として来る。
 九日、ようやく快晴となりたるも、午後よりまた大雨、
長瀬巡査部長、加賀谷郡視学来る。
 十一日、曇天 内務省書記官太田峯三郎、郡長、六郷
警察署長、伊藤・大日向両県会議員とまり、続いて千屋
村へ参りたり。
 十二日 大雨 天皇皇后両陛下この度の震災に大御心
を悩まし給え侍従差遣の旨仰せ出される。
 十三日、曇天 天皇皇后両陛下より金五千円下賜せら
る。
 十六日、小雨 檜垣本県書記官、加賀谷郡視学等視察
に参る。秋田耶蘇学校主(フランス人)見。
 十七日、晴天如鏡 本県連隊区より震災視察および軍
籍罹災者の見舞いあり。
 二十日、小雨 秋田魁新報記者香峯居士、山方石三助
震災視察。
 二十一日、晴天 救助金一千九十五円、郡役所より下
付。
 二十二日、勅使片岡侍従県下震災視察として本村に御
巡回。県知事、郡長、大曲警察署長、坂本・沼田両代議
士、斎藤前代議士、榊田・小西・伊藤の三県会議員随行。
 二十三日・二十四日、晴天 学校改築費補助金の議に
付、秋田県属佐藤宇一郎参る。
 二十七日、晴天 午後三時頃強震あり、震災地実情視
察として、宮中顧問官兼有栖川宮別当、従三位勲一等子
爵山尾庸三、正四位勲三等堤正誼、随行三人と共に参る。
震災地学視察として秋田県尋常師範学校長奥田教倍来
村。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 405
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 秋田
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