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項目 内容
ID J2601638
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1896/08/31
和暦 明治二十九年八月三十一日
綱文 明治二十九年八月三十一日(一八九六)〔秋田・岩手〕
書名 〔六郷町史 上巻 通史編〕○秋田県六郷町史編纂委員会編H3・7・9 六郷町発行
本文
[未校訂]六郷地震
地震の前ぶれと震源
 明治二九年(一八九六)八月三一日午後五時〇六分、
秋田・岩手両県を中心に東北地方を襲った大地震を「陸
羽地震」と政府は命名した。俗に「六郷地震」「真昼山
地震」といわれる地震である。
 この地震は仙北郡を中心とする横手盆地に集中し、千
屋・畑屋・六郷・長信田・横沢などは震度6の烈震区域
で、家屋の全壊率は四〇%以上とされ、半壊を含めると
全戸数の七五%以上に被害が及んだという。
 この地震は、震源地が二か所だといわれる。その一は
八月二三日に「前震」を起こした仙岩峠附近であり、二
は八月三〇日に大地震を起こし、奥羽山地西側に大被害
を及ぼした「千屋断層」であるという。
 昭和五六年(一九八一)、栗林秀三は『話題新聞』の「東
根の人」の中で、
 政府は東京帝大の教授であった今村明恒博士をこ
の地震(陸羽地震)の調査のため派遣した。更に奥
羽山地の向う側岩手県沢内村の北川舟、大荒沢付近
の和賀谷に現われた『川舟断層』の調査のため、震
災予防調査会は、当時の新進気鋭の地質学者の山崎
直方博士を派遣した。山崎直方は、沢内へ来て『川
舟断層』を発見して詳しく調査された。この『真昼
山』の東西両側の二つの断層が『震源断層』として
『陸羽地震』を引き起こしたのだ。『川舟断層』は
沢内村の大荒沢付近に現われ谷の西縁に沿うて南下
し、若畑部落と八又の間で道路と交差し、中村の集
落の真中を通り南川舟に入り、丸志田、泉沢、西猿
橋と通り松川の辺りで表面から地中に見えなくなっ
ている約二〇粁にわたる断層線である。『千屋断層』
は八月二三日に仙岩峠附近を震央とした『群発地震』
に見舞われたのは前述した通りで、それから奥羽山
脈の西側では、生保内の武蔵野辺りから生保内の集
落を西南に走り、刺巻辺りで地中にかくれ、角館の
広久内の附近から地表に出て東奥羽山麓沿いに、白
岩、豊岡、斎内、千本野、雨池、馬場添、新井から
小森、上野、花岡、畑屋の天狗山と湯の沢の間を走
り、南外川原から六郷東根小学校の東側を蛇沢、田
ノ尻を通り、金沢の山麓を南下し、横手の西側で地
中に入って見えなくなっている延長六〇粁にわたる
『断層線』である。この中で今追跡出来るのは生保
内から六郷東根までの約四〇粁の間で最近は水田の
基盤事業が進み断層が年々わからなくなっている。」
と記している。
 また、『明治二十九年ノ陸羽地震』の中で、当時臨時
委員であった理学博士今村明恒はその中の「四、震源」
につぎのように記している。(注、省略)
各地の震度と被害
 この地震により、秋田・岩手両県で全壊家屋五、二九
二戸、半壊家屋二万七、四三〇戸といわれる。被害はと
くに仙北郡を中心とする横手盆地に集中し、六郷・畑
屋・千屋・横沢・長信田の被害は前述のとおりである。
また、激しい震動は山中にもおよび、真昼山の東側沢内
村の川舟近くでは、真昼山山地はいたるところで斜面崩
壊が生じ、善知鳥川上流向沢では谷壁に大崩壊が生じた。
 陸羽地震における有感分布は図(5―5)に示すとおり
であり、その被害の分布は図(5―6)に示すとおりであ
る。
 また、仙北郡内における被害状況は次表に示すとおり
である。
六郷町の状況
 『秋田震災史』によると、六郷町の状況をつぎのよう
に記載している。
 「激震ノ始リハ午後五時ニシテ震動時間凡ソ三分
間此日朝来曇天稍々涼気ナリシモ午前九時頃ヨリ東
方ノ暖風尤モ激シク吹キ天気頗ル陰鬱ナリ。午前十
一時頃風位稍々西方ニ遷転シテ速力一層猛烈ヲ加ヘ
同卅分頃ヨリ時々微雨降下セシモ其蒸シ熱キコト限
リナク且ツ此日午前八時卅分頃ヨリ時々微或ハ弱震
アリシヲ以テ人心動揺甚ダ恐懼ヲ抱キツツアリシガ
午後五時ニ至リ地下鳴動スルト共ニ一大激震トナリ
見ル間ニ数百戸ノ家屋ヲ倒シ人民ハ戸外ニ駈出テ或
ハ後レテ壓死セル者アル等其惨憺ノ光景実ニ名状ス
ベカラズト云フ。而シテ此地ニ於テ地震以前ハ井水
其他ニ於テ差シタル異常ナキモ本年六月下旬頃ヨリ
遠ク東方ニ当リ微ニ鳴動ヲ聞キタル者アリト謂フ。
然シテ此地ノ転倒シタル石碑斜向セル家屋等ニ依リ
図5-5 陸羽地震の有感分布図
(数字は震度)
栗林秀三「東根の人」より
図5-6 陸羽地震の被害分布図
栗林秀三「東根の人」より
推測スルトキハ始メヨリ上下動及東西水平動共ニ起
リタルガ如シ。現ニ同町米町ナル熊野神社ノ鳥居ノ
如キ直立ノ儘其位置ヨリ三尺餘ヲ離レタルヲ見ルモ
上下動強烈ナルコト分明ナリ。而シテ右鳥居ノ位置
ニヨリ推算スルトキハ最大上下動殆ンド二寸内外ナ
ルガ如ク家屋其他物体ノ傾斜ニヨリ最水平動ヲ推算
スルトキハ殆ド八寸以上アルガ如シ。
 六郷町 戸数一千餘戸ノ内殆ンド九百戸ハ全潰シ
餘ハ半潰ニシテ僅カニ潰倒ヲ免レタルハ二十二戸ナ
リ。然レドモ破損セザルモノ一戸モナシ。死亡者ハ
三十餘名ニシテ生死不明一及負傷者数十名ノ多キニ
至ル。
 同町市街地総戸数八百二十ノ内全潰六百十九戸半
潰百十九戸大破五十五戸。内訳(全町九ヶ町ニ分レ
タル中大町四、荒町一、西高方町二、琴平町二、東
高方町一、古町新町二十一、米町十三、馬喰町一)
壓死者十六名生死不詳一名社寺倒潰四十餘棟土蔵同
八百五十餘棟。
 警察分署及町役場ハ大破損シタルモ幸ヒニ潰倒セ
ズ小林区署郵便局ハ全潰シ登記所ハ大破壊学校ハ体
操場布板落チ庇飛ビ全校傾斜セリ。
 社寺ノ被害ハ寺院二十一ヶ寺何レモ大伽藍ノ柱折
レ棟挫ケ縦横境内ニ倒ル。熊野神社ノ大鳥居ハ震動
表5-32 仙北郡内地震状況
町村名
(当時)
全戸数
住家全潰数
百分率
震動ノ方向
大曲
1150
118
10
東南東
花館
419
1
0

神宮寺
584
1
0
北西
北楢岡
290
0
0

刈和野
484
16
3
南東
淀川
301
0
0

大澤郷
438
3
1

強首
312
0
0

南楢岡
480
0
0

内小友
460
2
0

大川西根
285
2
0

藤木
410
151
37

高梨
414
254
62

四ツ屋
476
4
1

長野
542
11
2

角館
953
2
0
東南東
神代
533
25
5

生保内
372
68
18
東南東
町村名
(当時)
全戸数
住家全潰数
百分率
震動ノ方向
田澤
88
0
0

西明寺
411
3
1

中川
391
0
0

雲澤
386
0
0

清水
296
44
15

白岩
296
12
4

豊川
273
69
25

豊岡
254
119
26

横澤
446
223
50
東微南
長信田
136
120
75

千屋
585
338
59
東西
横堀
389
137
25

畑屋
432
324
76
東西
六郷
1701
706
42
東微南
飯詰
355
240
68

金澤西根
409
145
35

金澤
788
157
20

(合計)
18756
3295
17

今村明恒「明治29年ノ陸羽地震」より
ノ際一転シテ元ノ位置ヨリ四尺餘ヲ離レタルガ倒潰
セズ依然トシテ其体ヲ存セリ。」
と記録されている。
 『秋田県史県治部四』によれば秋田測候所報告の大要
として
 「午前八時過ヨリ微震断続、午後ニ至ルモ尚ホ止マ
ズ、遂ニ午後四時四十二分三十秒ニ及ビ、稍激烈ノ震
動トナリ、架上ノ物品転倒スルニ至ル。此時ノ実測ハ
図5-7 仙北郡六郷町震災図
明治29年「風俗画報」より
表5-33 六郷地震の被害(1)
郡市
焼失
家屋
其他建物
全壊
家屋
其他建物
半壊
家屋
其他建物
破損
家屋
仙北
27所
3棟
3,295所
1,149棟
1,287所
533棟
4,161所
平鹿
1
0
811
208
519
171
4,642
雄勝
1
0
140
39
175
121
1,960
河辺
0
0
7
2
6
1
90
南秋田
0
0
16
1
24
0
81
由利
0
0
2
3
18
12
2,203
山本
0
0
2
1
2
0
9
北秋田
0
0
0
1
0
0
0
秋田市
0
0
4
1
20
0
77
合計
29
3
4,277
1,405
2,051
838
13,223
「秋田県史」県政部4,605頁による
表5-34(2)
郡市
住民
死亡
負傷
家畜
死亡
負傷
仙北

185

603

130

41
平鹿
18
111
10
11
雄勝
1
21
0
1
河辺
0
0
0
0
南秋田
0
0
0
0
由利
0
0
0
0
山本
0
0
0
0
北秋田
2
0
0
0
秋田市
0
1
0
0
合計
206
736
140
53
出典前頁に同じ
最大水平動七分六厘ナリ。五時六分二十七秒遂ニ烈
震トナリ、動揺最モ甚シク、地震計附属感信器計ハ、
錘ト芳(ママ)ニ位置ヲ転ジ、水銀ハ外部ニ流洩シ、油類
ハ器中ヨリ逸出セリ。東西及ビ南北水平動示針ノ如
キハ、交叉シテ其用ヲ為サズ、五分十三秒間震動シ
テ稍衰フ。此際ニ於テ、屋壁潰崩、道路亀裂等ヲ生
ズルニ至ル。本日ノ初震ヨリ、翌日ノ午前ニ至ル迄
実ニ百九十回ノ震動ヲ実測セリ。」
 六郷地震の震動は広い範囲に伝わった。北は津軽海峡
を越えて函館に及び、南は彦根市、堺市にも達するなど、
日本列島の北半分に及んだのである。
 地震による人間や家畜等の被害もまた大きかった。そ
の大部分は倒壊による圧死と負傷で、死者は仙北郡の一
八五人をトップに全県で二〇六人を数え、負傷者は七三
六人に達した。このほか、
「潰倒ノ刹那其家屋ニ圧セラレナガラ、辛ウジテ這
出タルモノ、又ハ震災終リテ他人ニ発掘セラレ、万
死ニ一生ヲ得タルモノ等ノ如キ、算ヘ来レバ数千人
ニ達スベシ」(『秋田県史』県治部四)
との状況が見られた。これら家屋の損害および人畜の被
害を整理してみると、表5―33及び表5―34のようにな
る。
 このほか、六郷地震においては道路(四〇五九箇所)・
橋梁(二八八箇所)・堤防(一六七箇所)などにも大き
な被害がみられ、さらに地盤の隆起・沈降・亀裂などに
より、田畑・宅地・山林原野にも大損害が生じた。なか
でも水田の被害が大きく、収穫皆無の場所もみられたの
である。この慘状について、『秋田震災史』は、六郷町
の被害状況については、
「土地の変状を呈せるもの実に夥し。水田は方数里
の間一面に稲穂全部泥中に埋没し、泥土攪蕩せられ、
宅地畑等隆起して延々に丘陵を現せり。又土石崩壊
の為川流一時全く疎開せられたるものあり」
と記している。
「こうして六郷地震は地域住民の生活に深刻な打撃を
与えたのであった。」
とも記述している。
救護活動
 当時の救護活動について『日本赤十字社秋田県支部百
年史』は、この状況をよく伝えている。同史によれば、
 「六郷地震被災地救護の要請が日赤秋田支部に出
されたのは、明治二十九年九月一日のことであった。
秋田支部が発足していらい始めての平時救護要請で
あった。
 派遣された看護婦には、入所式を終えたばかりの
中から、前の秋田看護婦人会の速成教育を終了して
いた上原フサ・桜田ツ子・須田チヨ・二葉キヨ・安
達サホの五名が選ばれこれを引率、治療に当る医師
として穂積孝春が赴くこととなった。また、渉外や
世話役として渡部広晋(日赤秋田支部看護婦養成委
員)も同行することと決まった。救護員の一行は薬
品・治療器具を荷車に積み、午後五時には秋田市を
発ち、羽州街道沿いに南下した。まだ奥羽本線敷設
以前とて、医師も看護婦も草鞋ばき、しかも地震の
ため大きな亀裂があちこちに生じている夜の道であ
り、歩行には大変な困難が伴った。
 目的の六郷町に到着したのは、翌九月二日の午後一時
であった。現地における救護活動について、同行の渡部
広晋は次のように記している。
 分署ニテ田中警部長ニ面スルヤ、六郷町ハ震災中
心ニシテ連檐倒壊シタリト雖モ、幸ニ熊野神社アリ、
茲ニ治療所ヲ開クベク目下分署ノ一隅ニ於イテ高橋
軍平ノ治療仕掛リアル患者ヲ始メ同社ニ於イテ救護
セン、仍テ看護婦二名ヲ残シテ最大激震ナル千屋村
ヘ直チニ同行出張アリタシトノ事ニ付、上原フサ・
二葉キヨ分署ニ残シテ一同田中警部長ト草鞋ヲ穿
テ、午後四時千屋村ニ着シタリ、該村役場近傍ノ患
者ヲ救療スト雖モ、部落人家散在ニ付両三所ニ収容
スルニアラサレハ治療ヲ施シ難ク、坂本代議士(千
屋村出身・坂本理一郎)、役場員等曰ク、明旦ヲ期
シ村内ヲ招集シ治療所ヲ各所ニ設ケント、之ニ決セ
リ、着手ノ方針ヲ示シ渡部広晋六郷ニ帰ッテ熊野神
社ニ行ク、看護婦二名出来ッテ寸時分署ヨリ移ル患
者二名収容セリト、広晋爰ニ居リ各所気脉通シ救療
ノ便ヲ図ル。(渡部広晋資料による)
とある。
 以上は救護班第一陣の派遣当初の活動の実態である
が、つづいて九月二日には、「同教員一名、秋田市医会
員六名、看護婦六名を増発」(『日本赤十字社史稿』明治
編)し、一層救護活動を強化したのであった。この教員
とは、秋田病院医員の秋山勇之助であろう。
 いっぽう、日赤本部でも秋田支部と連絡をとりながら
独自の活動を開始した。『日本赤十字社史稿』(明治編)
によれば、
 「六郷地震の被災に関する情報が秋田支部から日
赤本部に入るや、本部では直ちに救護対策をたて、
九月二日には医長心得一名(村内資光)、看護人伍
長一名、看護人三名を派遣、さらに翌三日には医員
二名(遠藤胤寿・錦戸久男)調剤員一名(内海広業)、
看護人二名、看護婦長二名、看護婦十二名をも増派、
同時に「天幕・毛布並衛生材料・器械・薬品」
―などをも携行させたのであった。
 日赤本部ではこれら救護活動に直接役立つ医師・看護
人・看護婦・調剤士のほか、被害の実態を調査し、負傷
者の慰問を行う必要から、九月三日には特選幹事本間清
雄および事務員一名をも派遣したのである。
 当時鉄道は上野~青森間が開通しており、また奥羽本
線も青森~碇ヶ関間で開通していた。九月二日に出発し
た本部派遣第一陣は黒沢尻(現北上市)で下車し、平和
街道を利用して被災地に到着するコースをとった。とこ
ろが黒沢尻以西の道路が地震のため破壊されており、途
中二日間を費やし、六郷町に着いたのは九月五日午前六
時であった。
 いっぽう、第二陣および
本間幹事一行は、東北線で
仙台通過の際当時同地方に
出張中であった佐野常民社
長と会い、その訓示をうけ、
黒沢尻に到着した。ここで
「一行ヲ二分シ、一ハ汽車
便ニヨリ青森ヲ迂回シ秋田
市ヲ経テ災地ニ赴キ、一ハ
険路ヲ冒シテ直行スルコト
ニ決シ、即チ、本間幹事一行及医員・看護人各々一
名、看護婦五名ハ仙人峠
(注・平和街道の途中にあ
る峠)ノ羊腸タル険峻、或
ハ激湍ヲ跋渉シ、又ハ崩壊
亀裂セル道路ノ危険ヲ通過シ」(『日本赤十字社史稿』明
治編)、九月五日午後三時半には被災地六郷町に到着し
た。汽車を利用した一行はこれよりややおくれて七日夜
に同地に到着した。
 日赤本社救護班の到着により、これまでの救護体制を
再編成し、六郷町と大曲町の二箇所に治療所を設けてこ
表5-35 六郷町地震救護活動・患者治療の状況
治療所
患者数
入院
死亡
全治
未治
六郷

216

38

3

176

37
大曲
109
8
1
54
54
横沢
120
0
0
60
60

445
46
4
290
151
・『日本赤十字社史稿』による
れを本社救護班が担当し、他の横沢村にも治療所を設け
て秋田支部が担当することとなった。六郷の治療所には
半潰の小学校があてられ、早速治療活動に手を付け、大
曲では、「俱楽部ヲ以テ治療所ニ充テ」(前掲)た。また、
秋田支部の担当した横沢村治療所は村役場に設けられ、
九月七日から治療を開始した。治療所を訪れる負傷者は
打撲症が最も多く一七九名を数え、挫創四三名.捻挫三
七名、骨傷二八名がこれにつぎ、そのほか刺傷・切創・
裂創・擦過創・脱臼・火傷などの患者も相当数みられ
た。受傷部位は腰部以下というのが多く、これは地震に
際し家屋等の倒壊に遭い逃げる途中で負傷したものであ
った。各治療所ごとの患者治療の実績は表5―35のとお
りであるが、これに再来患者四四九名、救急手当てを施
した一〇五名を加えると、実にこのときの日赤本部、支
部の治療した患者総数はのべ九九九名に達している。
 「九月下旬に入るや患者の負傷も次第に回復したので、
治療所を閉鎖することにした。まず大曲治療所は、少数
の外来患者を同地の開業医に委託し、九月二七日には閉
鎖、本社救護員は帰京の途についた。つづいて十月十日
には六郷治療所も患者が減少したので本部救護員は引揚
げることとなり、あとは支部救護員が引つぐこととなっ
た。支部救護員の活動は十一月まで続けられたが、これ
も十一月十五日には終わりを告げた。かくて、三ヶ月に
及ぶ六郷地震の日赤救護活動はすべての事業を終えたの
である。」とその模様を伝えている。
町の対応と復興
 地震の発生とともに、町では畠山久左衛門町長を先頭
に地震による対策に乗り出すとともにその復興に総力を
挙げて対応した。
 詳しくは、本書第一節第三項六郷町の行財政の中の「明
治後期の行財政」に記してあるので、ここでは割愛する。
余震
 この陸羽地震の余震が一八年後の大正三年(一九一四)
三月一五日午前五時〇分上下動を主とした「烈震」が六
郷の人々を驚かした。いわゆる「強首地震」である。こ
の「強首地震」が「陸羽地震」の余震であったことに六
郷の人々は本当だろうかと驚く次第である。
参考文献
「陸羽大地震の考察・東京大学教授今村明恒著」
「秋田震災史」(秋田震災救済会)
「六郷地震被害記録」
「東根の人・栗林秀三」
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 394
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 秋田
市区町村 六郷【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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