[未校訂](注、生麦事件、文久二年) リチャードソンの事件後、[大君|タイクーン]の政府は条約の制限
区域内にある東海道沿いに多数の衛所を設けた。また、
大名行列の道筋を別の方へそらして、[厚木|アツギ]の町を通らせ
ることを提言したのだが、この計画は失敗した。外国人
は遠足によく東海道を通ったものだが、ロバートソンと
私もブラウン氏宅で行なわれる日本語の[稽古|けいこ]に往復する
ため、週に二回はこの道を通らなければならなかった。
[臆病|おくびよう]風に誘われまいと力んでは見ても、大名の行列を
やり過ごす時には生命が危い! と、いつもひやひやし
たものだ。あるとき、私が東海道をぶらぶら馬でやって
来ると、背の高い、例の両刀をたばさんだ男が来るのに
出会った。その男は、威嚇するような態度で私の方へ一
歩踏み出した。その時私は、拳銃を持っていなかったの
でかなりびっくりしたが、その男は外国人を脅かしたこ
とに満足したものか、そのまま行き過ぎてしまった。街
道で行き会った[侍|サムライ]で私に危害を加える意図があったと思
われたのは、私が覚えている限りではこの時だけだった。
侍階級の者はみんな血に飢えていると大抵の人々は思っ
ているようだが、これは全く根拠のないことだと思う。
しかし、日本人がどうしても外国人の血を流そうと決心
した時には、いつも周到な用意をして、かなり効果的に
やってのけたことは認めなければならない。
私が初めて地震を経験したのは、この年の十一月二日
であった。在住の外国人の間では、かなりの強震だと言
うことだった。だれか、ひじょうに重い人間が、[縁地|へりじ]の
[上靴|うわぐつ]で縁側や廊下を歩いてでもいるように、家がひどく
揺れた。強震が数秒つづいて、次第に弱くなって行った
が、私は少々気持が悪くなった。こんなに長い震動は、
自分の体内から生ずる震えに相違ないと、そんな気がし
だしたほどだった。初めて地震を経験した人の気持とい
うものは、大抵こんなものだろう。この現象をどんなに
経験しても平気にはなれず、それどころか、最も長く日
本に住んでいる者の方が地震の危険には最も神経質だと
言われる。それには理由がある。あまり最近のことでは
ないが、ひじょうに激しい地震があって、家が倒れ、地
面が裂け、またたく間に数千の人々が死んだことがある。
前の揺れから次の揺れが来る間が長ければ長いほど、揺
れ返しが今来るか今来るかと気が気でないものだ。これ
までは幾度ものがれたが、今度こそ自分の最期の時だと
思うと、危険に対する不安な予想はいよいよ強くなり、
初めのうちこそ相当長い震動にも我慢してすわっている
が、家屋の木材の[接|つ]ぎ目が荒々しくきしみ、[棚|たな]の上で陶
器が陽気に音をたてると、もうたまらないと椅子から飛
び上がって、出口の方へ逃げ出してしまう。
私は日本で、手に汗を握るほどの思いはずいぶんした
が、残念ながら本当に危険だった地震には一度もあわな
かった。現在でも日本で見られる、このありふれた地震
の実例についてさらによく知りたい人は、地震学協会の
定期刊行物や、有名な地質学者である私の知友ジョン・
ミルン教授の書いた物を参照されるがよい。同教授は多
くの自然の地震について観察し、これを記録しているば
かりでなく、ほとんど探知できぬほど本当の地震そっく
りの人工地震を起こすことにさえ成功している。