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項目 内容
ID J2601020
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1833/12/07
和暦 天保四年十月二十六日
綱文 天保四年十月二十六日(一八三三・一二・七)〔両羽・越後〕
書名 〔酒田市史改訂版 上巻〕酒田市史編纂委員会編S62・3・1 酒田市発行
本文
[未校訂] (二) 天保四年の大地震 文化の大地震から三十年経過
した天保四年(一八三三)に、ふたたび大地震に見舞われ
ている。文化の地震より規模も小さく、被害もはるかに
少ないが、大地震であったことに変りはない。この年は
六月末に大洪水があり、夏でも[袷|あわせ]を着るほどの寒さで、
米は稔らず、大凶作となり、九月末には雪が降るといっ
た、まさに異常気象の年であった。
 天保四年十月二十六日七ツ時(午後四時)に一回目の地
震がきて、その後、五~六日間余震を繰り返している。
天保の地震も、文化の地震のときと同じように、前夜は
急に蒸し暑さを感じている。「天保四巳年の飢饉」には、
 「十月二十六日、朝より暑きこと湯のいき(息)の如くで
ある。大風が吹き七ツ時になって大地震、津波によって
浜通り家人馬舟多く流失……」とある。
 酒田の被害状況は別表(二六四頁にあり)の通りであ
る。潰れ家・半潰れ家を全壊半壊家屋とすると六十八軒、
大痛み屋・痛み屋を中破・小破とすると四〇九軒であ
る。とくに米屋町組に被害が集中している点に注目した
い。また、津波の影響によって、川船や漁船二十七艘が
こわされたり、流失したりしている。酒田[河岸|かし]通りや、
新井田川[縁|ふち]から、潮水が町々へ上ったとあるが、津波が
どの程度のものであったか不明である。津波について安
倍[惟親|これちか]の「[咄|はなし]の[種瓢|たねふくべ]」には、「加茂の[入間|いりま]、半時ばかり
海水が一里も引いた。浜の人達は魚や貝を拾いに出た。
沖から五丈(一五㍍)もの大浪が打ち寄せ、海辺の村々の
家蔵人牛馬が、引き浪で海に引き込まれた。また、秋田
も同様で、越後でもひどく、海辺の拾八カ村が引き浪に
さらわれた」と書いてあり、かなりの津波であったこと
がわかる。
 天保四年の地震史料については、前出の他「本間家家
誌稿」「砂越来迎寺年代記」などがある。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 263
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山形
市区町村 酒田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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