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項目 内容
ID J2600963
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1830/08/19
和暦 文政十三年七月二日
綱文 天保元年七月二日(一八三〇・八・一九)〔京都〕
書名 〔甲子夜話 続篇 4、5〕松浦静山著中村幸彦・中野三敏校訂S57・10・1、S55・7・21 平凡社
本文
[未校訂](注、「史料」第三巻三三三頁上4と5の間に入れる)
 一七月二日 昼七ツ時より夜へかけ 明三日朝迄トロ
トロ之外大小共廿五六度
[七] 九月の半ば林子を訪したとき、話、京師地震のこ
とに及たるに、林子曰。地震は七月のことなるに、かの
将軍塚は六月に鳴動したる由、京より帰し人云しと。曰
ふ。この将軍塚のことは、古書にしば〳〵見ゆる所なり。
さすれば今度の地震も予め知るべきことにや有けん。
『日本史ニ』云。坂上田村麻呂ハ、左京大夫苅田麻呂ノ子也。
身ノ[長|たけ]五尺八寸、胸ノ厚サ一尺二寸、身ノ重サ二百一斤。軽レハ之
至ル六十四斤。眼如蒼隼、鬚髯如シ金線。有膂力。
陸奥守、鎮守将軍、尋テ拝征夷大将軍。奉敕検校諸国ノ
夷俘二十年。延暦二十三年、再ビ為征夷大将軍、弘仁
二年薨ズ。年五十四。賜山城宇治郡栗栖村ノ、水陸田山林
三町、為墓地。使其屍立棺中、向平安城、而葬
之。幷テ甲冑剣牟弓箭糒塩瘞之ヲ、官使監護其事。是ヨリ
後国家将ニスレバ有事、則其墓鳴動スト云。大将毎ニ出征スル、先詣テ
而禱ル焉。
『和漢三才図会』云。将軍塚ハ、桓武天皇遷スノ都ヲ平安城時、
造リ八尺ノ土偶人、著甲冑帯太刀、向帝都埋メ於此、
以テ為鎮護ト。如シ将ニルトキハ有ント災変、則鳴動ス。」これ何に拠るか
又異説なり。
『源平盛衰記』、将軍塚鳴動の事の条。
七月七日申の刻に、南風にはかに吹て碧天たちまちくも
り、道を行もの夜あゆむに似たりければ、人みなくやみ
をなすところに、しやうぐんづか鳴動する事、一時がう
ちに三度なり。五畿七道こと〴〵くきもをつぶし、耳を
おどろかす。のちにきこえけるは、初度のめいどうには、
洛中九万余家にみなきこえ、第二度のめいどうには、や
まと、山しろ、あふみ、たんご、いづみ、河内の国、な
にはのうらまできこえけり。第三度のめいどうは、六十
六ケ国にもるゝ事なくきこえけり。むかしよりたび〳〵の鳴動ありしか共、一時に三度これぞはじめなりける。
ひがしは奥州のすゑ、にしは九かこくのはてまでもきこ
えけるこそふしぎなれ。おなじき日のいぬの刻に、たつ
みの方より、じしんして、いぬゐをさしてふりもち行。
これもはじめには事なのめ也けるが、しだいにつよくふ
りければ、山かたぶきてたにをうづみ、きしくづれては
水をたゝへ、堂塔坊舎を顚倒し、つゐぢたていたもやぶ
れをちて、[山野|サンヤ]のけだもの、上下の男女、みな大地をう
ちかへさんずるにやと心うし。たによりをつるたきつせ
に、さほさしわたしわづらふ筏師の、のりさだめぬこゝ
地して、やゝひさしくぞゆられける。
大地震の事
おなじき年の十二月七日いぬ刻に、又大ぢしんあり。を
びたゞしともいふばかりなし。時うつるまでふりければ、
たゞいま地をうちかへすべしなど申て、貴賤[肝心|カンシン]をまよ
はす。
『盛衰記』の文を見れば、此度のことと能く似たり。又
在番の大番頭、新庄氏が家来の云越たる文を見たり。即
茲に附す。前記と見合すべし。
二条在番新庄主殿頭家来、奥谷伝次郎と申仁より、
秋元但馬守家来、田村糺八郎方え申越候書状之写。
寅八月四日京都出、同十三日到来。
大地震之発りは、五六日前より、日々暮時頃より夜四時
頃迄、西北之空電いたし、此光り常之稲光よりは分而強
く、何れも怪敷思候斗に而御坐候。右五六日天気打続、
日夜更に風なく、暑気甚敷御坐候。然処、二日朝四時頃
より薄曇に相成、空之景色、大風之節砂埃立候節、空之
色赤く相成候様に相見え、其日は暑気甚敷、誠蒸如く、
何れも凌兼候。然処、七時過頃、俄にいづく共なく震動
強致候。其内二三度少々之地震致候処、次第強相成申候。
此日私義、西御門え七時より出番中に御坐候。尤右御番
所、御城内人々出入改場所に御坐候。右御番所は枡形之
内に而、内外に御門有之、四方石垣高く御坐候。次第
次第に大地震と相成、御番所壁も落べき様に相成候間、
刀を手に取持、草履取はき候間も無之、素足に而馳出
候処、揺様強く、中々歩行不相成候まゝ匍匐候而、
枡形之真中迄罷出候処、命から〴〵夢中之様に相成申候。
此時外御門之家根、御門外え倒れ落、其内四方之石垣転
出、枡形之内は砂煙立、物之[相色|あ いろ]も不相分、闇夜之
如く相成申候。此時は人心地なく、既に是迄と覚悟仕候
処、無程砂煙も鎮り、七半時頃に至、揺も少々は軽く
相成候得共、全には治り不申候。漸此時に至、蘇生仕
候様に奉存候。大揺之節之事共、筆紙に難尽奉存候。
砂煙も[良|やや]鎮り候と見候処、御番所も倒れ、壁、鴨居等も
等く落、石垣之大石小石之差別なく、私伏居候土間え弐
三尺脇迄も転出候得共、此時は何れも弁へ不申候。乍
然仕合と誠以難有、此度之儀は命拾ひに御坐候。御
推察可被下候。内御門は枡形之方へ少々曲り候斗に
而、此御門は御別条無之候。此御門倒れ候はば絶躰絶
命、夫迄に而、今更思出候も畏敷、誠に危き命拾ひ、漸
入相頃に鎮り候間、先枡形之内を遁れ出、何れも全安心
仕候。枡形内に詰合之者共、人数九人罷在候。右之内、
摺疵位之事は御坐候得共、私に於ては少之疵も無之間、
御安意可被下候。夫より御城中広場に而、右九人共
落着申候。又々暮時頃、最初よりは弱き地震揺申候。是
は同刻過頃より鎮り申候。平日、右御番所は暮六時之御太鼓打切候に而、御〆り申付、引取候処、今日如形之
儀故、夜五ツ時頃、諸司代様地御役人様方、御城入有之、屋敷左右承候様も不相成、大心配仕候内、屋敷
小屋より使も参、上下別条無之趣承、全安心仕候。漸
夜九時過に帰小屋仕候処、上下共皆々小屋内広場に出居
申候。此時に至り候而も、全には鎮り不申候。凡夕刻
より夜半迄、地震震動共七八十度も御坐候。四日之間上
下共野陣仕候。何れも握飯に而口腹を養ひ申候。私小屋、
壁所々落候得共、格別之損物も無御坐候。小屋玄関
潰れ、住居所も破損、御堀石垣崩候処八ケ所、幷御土居
南之方、北之方曲り候斗、外御土居は倒れ申候。其外御
本丸二の丸共、所々御破損所御坐候。御城内に而怪我人
一人、即死二人、東西番頭小屋には壱人も無之、西御
番衆御家来幷与力、同心共、市中之事をも段々承候処、
御城内程には無之様被存候。清水舞台落、八坂塔く
じけ、岩鞍、愛宕、鞍馬、叡山、山々は別而強当候由。
去る十六日迄は家中之面々、一同半夜替りに而詰居申候
処、段々鎮り申候。此節は平日之通、乍然今以三日に
一両度程づゝ御坐候。甚以安心仕兼候趣に御坐候。以上。
因に云ふ。或人曰。当時の権閣水羽州は、天変地異を告
る者有れば、蔑如して、その応対いつも拍子はづれのこ
と[耳|のみ]とぞ。因て面従の輩は口を閉て言ふ者なしと。其一
二を云はゞ、此度京師の地動を云者あれば、答辞に、世
に針棒の譬あるは宣なる哉。何程のことや有んとなれば、
言ふ人も[愕|アキレ]て退き去れりと。又二条御城石垣の崩れし
ことを言へば、[対|コタへ]に、さほどにも有るまじ。石の一つ
二つも孕出しなるべし。先頃常盤橋外の石垣崩れしを見
たるときも、沙汰ほどには非ず抔の挨拶なりしと。或人
又曰。宋の時、王安石が、天変不足畏、祖宗不足法、
人言不足憂と云しこと、今更のやうに思合[芹|せり]。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 246
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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