[未校訂](注、薬師寺講堂三尊に関する記述の注)
五『年預所日記―文政二年』
(六月)十二日。今日八ツ時少シ過比ニ大ニ地震致し。
講堂仮屋金堂東ノ軒ニ立出し有之候処。右地震ニ而崩れ。
脇士御首落。東塔九輪少シ損し。其外寺中ニも門少しつゝ
ユカミ。塀処々倒れ(下略)
十五日。今日右講堂本尊。講堂堂内へ移し拵致し候也。
御用五人
十九日。阿弥如(ママ)来脇士等講堂へ仮リニ入候ニ付。大工
壱人。御用七人。
(九月)十六日。快晴。講堂脇仏御首損し候ニ付。大坂
勧化所ニ而。最勝王院方へ直しニ遣し度旨ニ而。今早朝
大坂方へ遣し候。尚又金堂二階より仮首を出し取替置也。
なお、以上の記事にみられる講堂とは、安永九年(一
七八〇)に届出のあった仮屋を指し(注三)、これは翌安
永十年に、梁行・桁行各三間の切妻造で建てられたもの
である。これについては本巻の『薬師寺絵図』解説中の
「七、講堂」の項参照。