[未校訂] これから三年後の(一八〇四)文化元年には、出羽国の日本海岸
一帯で大地震があった。六月四日夜から五日昼夜共に大
ゆれとなり、六日になってやっと弱くなった。「松山も
四日夜より五日、六日其後も追々よる。酒田よりは弱し。
人家潰家一切なし」ということで、松山ではさしたる被
害はなかったが、酒田では藩の米蔵や新井田役所が潰れ、
鵜渡川原では地割れして泥を噴き出し、宮浦では全戸が
潰れ死人も多くあった。加茂では海水が沖にひき、船が
港に転び、人々は水のひいた海に出て、残されて跳ねて
いる魚をつかまえたという。
この時、松山藩では酒田の藩米蔵が潰れたので、早速
人足を出してその回復をはかっている。