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項目 内容
ID J2600633
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1771/04/24
和暦 明和八年三月十日
綱文 明和八年三月十日(一七七一・四・二四)〔八重山群島〕
書名 〔新訂増補 八重山歴史〕喜倉場永珣著S50・12・20 国書刊行会発行
本文
[未校訂]第十四章 明和の大津波
明和の大津波に関する記録は「大波揚行次第」。乾隆
三十六年卯年御手形写。乾隆三十六年卯御問合控。球陽
にある久米島、慶良間島、宮古島、八重山島での津浪の
記録。等が重なる記録であるが、そのうち首里王庁の報
告書として、上記の大波寄揚候次第の表題を「大波之時
各村之形行書(ナリユキシヨ)」と書きかえて報告したも
のがあるが、本章は首里王庁へ報告した「各村之形行書」
を中心として、その他の記録からも資材を取つて書いた
のである。
一、津浪の原因
 清の乾隆三十六年辛卯、明和八年(一七七一)三月十日
新暦四月廿四日午前八時頃から、同九時頃の間に全琉球
において地震があつた。地震が止むと、八重山では直ち
に東方海洋に、雷鳴のような轟音があつたが(陥没地
震?)間もなく稀有な大干潮の異変的な奇現象を呈した
ので、島民は、大いに驚いていたが、意外にも東北東南
に黒雲のような大浪が天に冲して石垣島に向つて三回に
渡つて、猛襲して来たのである。
 その大浪の高さ二十八丈或いは二十丈或いは十五、六
丈或いは二、三丈というように襲来したのである。(旧
暦の三月十日は新暦の四月二十四日に当る理科年表によ
る)
二、津浪の経路
1一筋は、石垣島の東北地方にある桃里、仲与銘(ナ
カユミ)、舟越、伊原間、安良等の五部落方面への
襲来。
2一筋は宮良川の凹地を伝つて「スリ山」を切り崩し
て、名蔵湾へ流れこんだもの。
3一筋は、大浜、平得両部落の後方低地から西方へ向
い、石垣市の後方を流潰して、同市西海岸へ注いだ
もの。
4一筋は、石垣島の東南から猛襲して、白保、宮良、
大浜、真栄里、平得の五部落を襲い、さらに登野城、
大川、石垣、新川の四部落を崩壊しながら、名蔵、
崎枝、屋良部村を流潰したもの。
5津浪の余波が、黒島、新城の両島を始め各離島の海
岸地帯を洗い流したもの。
 三、津浪の災害状況
 大津浪当時の八重山の人口は、二万八千九百九十二人
であつたが、その中溺死者は、九千三百十三人(内金城
在番に石垣・宮良両頭、惣横目二人に諸役人八十三人、
計八十八人大阿母一人)流失家屋二千百二十三戸、浸水
家屋一千三戸、首里王庁への貢納米八百二十二石二斗五
升は馬艦船に積んだまゝ、津浪のため、船諸共に流失。
 蔵元の倉庫内にあつた所遣(トコロツカヒ)穀二百二十
四石二斗五升流失。二度夫賃米千百七十六石九斗九升。
白上布八百六十八疋(六百五十一石)。白下布八百五十一
疋(二百十三石)。公用船三十一隻。私有船六十一隻。馬
艦船六隻。馬四百三十一頭。牛九百九十五頭。牛馬牧の
石垣二千九百間余、猪垣五千七百間余、橋三座、防潮ア
ダンバ地三十七万五千坪、薄野五万七千坪、藪地五万坪、
茅原六万七千坪は津浪のために流失又は引崩されたので
ある。
 全壊部落(真栄里、大浜、宮良、白保、仲与銘、伊原間、
安良、屋良部)八ケ部落、半潰部落(新川、石垣、大川、
登野城、平得、黒島、新城)七部落であるが、石垣町は
宮鳥御嶽の前方の坂の下線まで東西約三分の二は流潰し
たのである。その他の離島は、余波が周辺の保安林や畑
の作物を少々引き流したにすぎなかつた。
 八重山の行政官庁、在番や同筆者の官舎三軒、桃林寺、
権観堂、医者の官舎、四ケ所の会所(学校)、美崎御嶽を
はじめ外十三か所の御嶽(天川・系数・崎原・宇野道・
コルセ・外本・山崎・嘉手刈・真謝・田原・仲夢・大
城)計八千二百坪が流失され、各村番所十三か所(四か
村・平得・真栄里・大濱・宮良・白保・伊原間・安良・
黒島・新城)が引流された。(御手形写・御問合控による)
四、津浪当日の緊急処置
 津浪のために修羅の巷となつた石垣島は、在番金城親
雲上朝倚は溺死し、真栄田在番筆者と大浜頭両人は、耕
作方視察のために、小浜島出張中であつたし、翁長同筆
津浪前の人口
溺死者数
生存者数
流失家屋
流失畑
流失田
摘要
登野城村
一、一四一
六二四
五一七
一八四
五十町歩
九町七反
大川村
一、二九〇
四一二
八七八
一七四

―田畑の流失異状なし
石垣村
一、一六二
三一一
八五一
?四八
――同
新川村
一、〇九一
二一三八七八
一三九
六十五町余
十町九反余
桴海村
二一二
二三
一八九

――
川平村
九五一
三二
九一九
――一反七畝余
崎枝村
七二九一

七二四
一二
―二反七畝余
名蔵村
七二七
五〇
六七七
―――計
七、三〇四
一、六七〇
五、六三三
五五七
百十五町余
二十町余
備考?印は百四十八戸の誤りであろう。
名蔵村のシーラ橋大川橋もくずされたので安永四年に架橋復興された。
流失畑は御手形写から流失田は御問合控による。
者も造船状況視察のため古見村へ出張中であり、その上
石垣、宮良両頭も溺死してしまつて、蔵元の内閣はがら
あきであつた。
 指揮監督者を失つた八重山は、舵のない舟のように途
方に暮れて、なすべき術を失つていた所を、機智果断に
とんだ山陽姓大川与人大浜長致は、直ちに緊急命令を発
して、名蔵、崎枝両村に使者を派遣して、上納米を徴集
して罹災民へ配布し、又小舟全部を徴集して一隻は小浜、
古見の両村に出張中の在番筆者へ緊急報告をさせ、他の
諸舟は水難者の救助にあてて、又一方では粥をたかせて
これを水難者に与え、夜は火を焚いて、罹災者に暖をと
らせ、或いは漂流者の目標にしたのである。
 翌十一日には、両在番筆者に大浜頭が帰庁して指揮命
令をして、水難者の救助や死体の処置に力を尽し、又再
襲を恐れて山の手に離散した村民を説いて帰家させて残
家に合宿を命じ、全部崩壊した部落は適当な場所に仮小
屋を建てさせて収容し傷者の治療や食糧等を与えて、厚
く手当をほどこしたのである。
 大川与人大浜長致は、災難当時、妻は石垣が崩れて下
敷となつて死亡し、弟や子供は溺死し母親は家屋の下敷
から救助されて重体に陥つて、七日目に死亡したという
災厄中にあつたが、私事を捨てて、公事に尽力し、多数
の人命の救助に重きを置き、蔵元内閣の留守中に、かれ
らに代つて緊急命令を発して、災難に善処したのである。
 その功労が顕著であつたのを衆人は認め、在番頭は首
里王庁へ上申したところ、尚穆王から一級を越えて築登
之の位から勢頭座敷に昇叙されそれとともに綿子二把を
下賜された。
 真栄田在番筆者頭大浜親雲上や上原与人等も家族を失
つたが、これに気をかけず昼夜各村を点検、水難者を救
助し、被害状況を調査し、甘藷の植付を督励した功によ
つて、表彰状や上布三疋を下賜された。
五、慰霊祭典挙行
 津浪の惨状が上聞に達したので、国王は大いに驚いて
哀悼を垂れ、名代として源河親雲上と名城筑登之親雲上
の両人を派遣して、公倉の米を水難者に配給し、祭典を
挙げさせたのである。
 五月十八日、八重山に到着して津浪の現場を視察の上
諸準備を整え、六月六日蔵元の旧敷地で祭壇を設け、供
物を備え、源河親雲上司式のもとに桃林寺の愚門長老は、
祭文を読誦した。在番頭を始め、百官有士郡民全部参集
の上、祭典を厳粛に取行つた。
 又特別に金城在番へは墓前に頭や大阿母へは霊前に、
在番筆者名城筑登之親雲上は摂政三司官の代理として、
供物を供えて祭典を挙行した。
 尚穆王は、この天災の大事にあつたので、昼夜畏れ謹
んで、自ら摂政三司官・法司・御物奉行、申口、等の最
高官等を率じて、四月二十四日、崇元寺、円覚寺、天王
寺等に参詣し、先王や妃神の霊を祭す、三司官や法司等
は弁獄、末吉、弁財天堂、識名、観音等に参詣し、五月
一日には普天間宮に参詣して、国泰安民を祈り、四月二
十五日から二十七日までは円覚寺、護国寺に参つて僧侶
に祈願をさせた。
六、災害の復興
一、石垣町の移転問題
 津浪のために修羅の巷となつた石垣の町では、再度津
浪が襲来するかも知れないという杞憂論者が抬頭し、再
度襲来しても安全な山の手の高台「文嶺(ブンニー)」と
いうところを撰定して盛んに移転方の陳情を在番頭にし
たのである。野国在番は、首里王庁の認可を得て、明和
年代
明和八年
(一七七一)
同上
同上
同上
同上
同上
同上
同上
同上
同上
部落名
平得村
真栄里村
大浜村
宮良村
白保村
桃里村(仲
与銘村)
伊原間村
安良村
平久保村
野底村

津浪前の人口
一、一七八
一、一七三
一、四〇二
一、二二一
一、五七四
八八八
七二〇
四七七
七二五
五九九
九、九五七
溺死者数
五六〇
九〇八
一、二八七
一、〇五〇
一、五四六
一九九
六二五
四五六
二五
二四
六、六八〇
生存者数
六一八
二六五
一一五
一七一
二八
六八九
九五
二一
七〇〇
五七五
三、二七七
移住前の部落名
黒島
波照間
小浜島
波照間
―黒島
平久保
五十一人を安
良村へ移住
――移住人口
三一三
四一九
三二〇
四一八
―一六七
五一
――一、六八八
現人口
六一八
五七八
五〇四
四九一
四四六
六八九
二六二
七二
六四九
五七五
四、九一四
流失家屋
一七五
一七六
二一〇
一四九
二三四
五二
一三〇
九〇
一五
―一、二三四
流失畑
一〇二町余
一六〇町余
一六三町余
二六〇町余
三七七町余
一町二反余
二二二町余
十町
七町余
―一三一二町余
流失田
二町二反余
九町三反余
一町七反余
一町七反余
一町二反余
十三町余二
二反余
六町余
―三四町余
摘要・仲与銘村、安良村の溺死者に誤算があつたので訂正した。
野底村のフキドー橋流潰したので翌安永元年改築した。
部落名
黒島
新城島
津浪前の人口
一、一九五
五五四
溺死者数
二九三
二〇五
生存者数
九〇二
三四九
移住前の部落名
三一三人真栄里村へ移民
一六七人伊原間へ移住
―現人口
七三五
三四九
流失家屋
八五戸
一八四
流失畑
六十四町余
百町余
流失田
竹富島
波照間島
南風見村
崎山村
西表村
上原村
鳩間島
高那村
古見村
仲間村
小浜島
与那国島

総計
一、三一三
一、五二八
四八九
五二五
一、二一〇
六七六
四八九
三八〇
八三八
四七八
九〇〇
九七二
一一、五四七
二八、八〇八
二七
一四
一一
二三
六二
三六

三六
一五一


―八七四
九、二二四
一、二八六
一、五一四
四七八
五〇二
一、一四八
六四〇
四八七
三四四
六七八
四七三
八九一
九七二
一〇、六七三
一九、五八三
五二三人富崎村へ移住
四一八人は白保村へ
四一九人大浜村へ
―――――――――三二〇人宮良村へ移民
二、一六〇
三、八四八
七六三
六七七
四七八
五〇二
八三五
六四〇
四八七
三四四
六七八
四七三
五七一
九七二
八、五一三
一九、〇六〇
――七

―――七
――――二八五
二、〇七六
三十六町余
十町余
――一町六反余
―――――――三一町余
一、六三八
――十一町余
―一反六畝
――――――一一町一反余
六五
八年の冬いよ〳〵文嶺の高台へ希望者だけに二十三軒移
転した。
 翌安永元年(一七七二)大川、新川の両村には長崎泊船
着場に船手座、仕上世座、同御物穀入蔵を建築させ、石
垣、登野城両村には、蔵元、在番仮屋、桃林寺、権現堂、
医者仮屋等の建築の分担となつてすでに文嶺には、蔵元
の御問合座、日帳方、改方、系図方、惣取ノ座、勘定座、
惣横目座、所遣座、在番仮屋三軒等は落成して、奉公人
住家二十三軒に蔵元合わせて二十四軒は、文嶺に移転し
て、公務を開始したのである。
 しかし、安永三年(一七七四)になって、一般は次の
理由で「文嶺移転反対論」を在番頭に提出したのである。
一、用水が不自由なこと。
二、御用布の干晒の上からも文嶺は、至極不自由であ
ること。
三、石垣町以外の各部落を始、諸離島の公務上無駄な
時間をついやし往来が困難であること。
四、移転に要する労力と多額な費用がかかること。
五、津浪の後の食糧を始め、経済上一大困難の時機で
あること。
六、大地方や諸離島から税石や御用布等を運ぶのに一
大困難であること。
七、石垣泊は枢要な船舶の碇泊所であるから蔵元もそ
の場所にあるべきであり、遠い山の手では公務執行
至つて困難であること。
 八、稲の収穫期には小舟での海上運搬者は石垣泊から
更に文嶺まで再運搬という無駄があること。
 屋嘉部在番をはじめ、三頭は以上の陳情を受けて決定
しかね、僧侶、医者を始めとして諸役人一般を集めて「町
民大会」を開いて、移転問題の可否を解決するため採決
を行つたところ、文嶺を可とする方は、たつた二十三人、
否とする方は五百六十七人で、断然圧倒的数であつたの
で、この結果を首里王庁へ報告したら、旧敷地へ再転せ
よという命令があつたので屋嘉部在番の時、安永四年(一
七七五)旧石垣町へ文嶺から再転したのである。これは
文嶺へ移転して五年後のことである。この移転問題は単
に石垣町ばかりでなく、大浜村の各部落も第一回は安全
地帯へ移転して、第二回目に旧敷地へ再転したのである。
二、大浜町の復興
 津浪のため流潰された各部落は、津浪後野国在番、頭
等直ちに復興計画を樹立し、人口の多い部落から強制移
住を断行して、各部落を同年中に復興したのぜあるがそ
の時、後難を恐れて各部落共、敷地がえして創立したの
である。
 「附」一、諸離島中の溺死者は、黒島、新城両島を除
く外の部落は公用と私用のために、石垣町へ出かけて来
て災難にあつたものである。
一、右の表には「大波揚候次第」という記録によつた
ものであるが、溺死者は、九、二二四人になつてい
るが、首里王庁へ報告は、九、三一三人で八九人の
開きになつているのは「大波揚候次第」の数字があ
つたためである。
一、この溺死者数に関しては、各文献とも皆異ってい
るので、煩をいとわず記して参考に供します。
一、大波揚候次第、大波の時各村形行書には九千三百
十三人。
一、御問合控、八重山郡勢要覧、八重山の研究には九
千百八十人。
一、沖縄歴史、ひるぎの一葉には九千四百八十八人。
一、球陽、沖縄郷土歴史読本には、九千三百九十三人。
一、古琉球には、九千四百九十人。
一、御手形写には、九千四百二十九人。
一、沖縄一千年史には、九千余人。
一、津浪前の人口に対しても報告書には、二万八千九
百九十二人とあるが、明治四十二年(一九〇九)十二
月「八重山人口及び増減調」の中には明和八年三月
人口、三万六千四百二十二人此月海嘯のため溺死し
たが、九千八十人なり」と誤つた調査をした記事か
ら、なんら再検討、再調査をしないで、八重山の研
究というパンフレツトはこれをそのまゝ写したので
ある。
又一九四九年三月発行の八重山民政府要覧にも八重
山の研究も検討もしないで、筆写して同様な記録を
発表して世人を誤らしている。
この八重山人口及び増減調が誤算したわけは「明治
二(ママ)十五年(一九〇二)十一月提出された「国税未納延
期の儀に付請願書」の中に「明和八年三月全島家を
流し、産を失い、余す所のものは、唯当時の人口二
万七千二百四十二人の内一万八千六十二人あるの
み、其惨状言語に絶す」云々という記事を見誤つて、
右の記事からすると、津浪前の人口は、生存者一万
八千六十二人に溺死者九千百八十人を加えて計二万
七千二百四十二人が津浪前の人口であるのに見誤つ
て、津浪前の人口、三万六千四百二十二人というで
たらめな虚報をしたわけである。
又その記事中にも正しく当時の人口二万七千二百四
十二人と明記されてある。その内から九千百八十人
は溺死して残人口が一万八千六十二人いるという意
を誤解したわけである。
一、津浪前の人口に対しても、中山への報告書には、
人口二万八千九百九十二人とあるのがやゝ正確な人
口数に近いように考えられる。
「大波揚候次第」からとつた前表によると、津浪前
の人口は二万八千八百八人となつていて、報告書の
二万八千九百九十二人に開きがあるのは、記録を筆
者したものが、誤字誤算した結果百八十四人の差を
生じたわけである。
一、明治三十五年「国税未納延期ノ儀ニ付請願書」の
中にも津浪の人口は、二万七千二百四十二人と記さ
れてある。いずれも二万八千以下であつて、三万六
千というでたらめな虚報がないことはこれによつて
もわかる。
一、御手形写という記録によると、明和八年十二月調
の人口は、二万一千九十八人とある。八重山人口及
び増減調表の如く三万六千四百二十二人が、津浪前
の人口とするならば、それから溺死者九千百八十人
を引いて、二万七千二百四十二が生存者となつて、
九ケ月後の十二月の人口には、それ以上なるべきだ
が反対に五千人以上減じている点からしても、三万
六千はでたらめな誤報であることが首肯される。
七、津浪の影響
 琉球黄金時代の文化と、これに日本、支那の三文化の
影響をうけて、八重山はその持つ優秀な素質をもつて、
各文化を消化創造して、新しい政治に、経済に教育に芸
術産業等の各方面に発展して、八重山文化の黄金時代を
築き上げて来たが、この津浪の天災にあい、一瞬のうち
に崩壊の憂き目を見て、八重山は奈落のドン底にたゝき
おとされ、人口の三分の一を失い過半数の家屋を流失し、
もつて八重山の行政官庁の蔵元をはじめ、桃林寺、権現
堂や在番の三官舎、学校、部落、御嶽等あらゆる建物と
文献、美術工芸品や古物等の文化財を多量に失つてしま
ったことは、♠爛たる花がまさに実を結ぼうとしている
時に根こそぎにされたと同様な仕末である。
 ちょうどすく〳〵と伸びて行く文化の新芽を剪定され
たと同様な苦境に落ちこみ、八重山唯一の文献の保管所
としての蔵元が流壊した結果、歴史の資料や文献を失わ
れて、八重山歴史を研究するものゝ、その欠陥だらけの
史料や、文をつぎはぎして、他郡市に見えない苦痛をな
めつつある。
「備考」
 明和の大波揚は八重山の被害が甚大で、宮古がこれに
次ぎ、久米島、慶良間は割合に軽少であつた。宮古島は
宮古本島六ケ村、伊良部島三ケ村、多良間島二ケ村、水
納島十二ケ村が流潰家屋一千五十四軒、侵水家屋二十五
軒、溺死者二千五百四十八人であるが、政治文化の中心
である平良町の無難は、不幸中の幸であり、あらゆる文
献国宝等の保存が充分である。久米島や慶良間は文献が
ないため不詳である。
第十五章 津浪後に襲つてきた天災
 一、明和八年の津浪の災いが癒えないうちに、同年四
月八・九日頃から石垣島の各村落に「赤蠅」が発生し、
牛馬に群集して血を吸つて衰弱させ、五・六日間で、耕
作牛三十二頭、牧牛十五頭、乗馬九頭、牧馬十八頭、そ
の他合わせて、百頭位を死なした。その惨状は、目も当
てられなかつたが、その予防撲滅の術を知らずに、途方
に暮れているところが二十日頃から豪雨が降りつづいた
ので、赤蠅は自然の脅威に抗し得ず全滅した。そのため
牛馬の大難は、ようやく解消を見たのである。
 一、津浪の翌安永元年(一七七二)六月頃、疾癘(伝染病)
が、石垣島の白保村で冬から春にかけて発生した。村中
はもちろん、島全体に伝染し、二、三ケ月あるいは五、
六ケ月病床に呻吟してよく年の夏秋には終熄したが、又
冬春に再発してその毒手に倒れた者が多かつた。その員
数は不明である。(大波揚げ候次第による)
 一、安永二年(一七七三)津浪後のうちつづく風旱のた
めに、農作物は被害が大きく、収入が少いために食糧難
におち入つた。甘藷かずらから実まで虫害を受けたので、
ます〳〵大飢饉になり、食糧難に襲われ饑死の生地獄を
見たので、牧場の牛馬を屠殺して食い、かろうじて饑死
をのがれることが出来た。その時の屠殺牛馬数は、二千
三十頭に及んだのである。
 一、津浪五年後の安永五年(一七七六)から、安永七年
(一七七八)にかけて、又も飢きんに襲われ、饑死するも
の二千六百八十一人、疾癘の毒手にたおれた者が一千五
十二人で、計三千七百三十三人の生命を失つたので緊急
処置として蔵元にある納税米から三百石を拝借米として
認可を受けて、飢えている人々に配給したが、安永六年
の飢きんの時は、救助米の配給が遅いため、桃里村など
では、二百人が枕を並べて、たおれたという悲しい記録
もある。
 安永六年(一七七七)の三月から六月までにどんな伝染
病とは記録されていないが、不思議にたおれる牛馬が千
五百五頭あつたと記されている。昭和九年九月頃発生し
た「ピロプラズム」のようなもののようにと考えられる
が判然しません。
 一、享和二年(一八〇二)から翌三年まで、伝染病に疫
癘が流行して、四百五十人の死亡者を出し、天保五年(一
八三四)から同九年(一八三八)まで、伝染病や痲疹がは
びこり、予防法がない島民は、そのため六百三十六人倒
れ、又同年にその他の病気のために、一千九百九十六人
の犠牲者を出した。
 又嘉永五年(一八五二)からよく六年にかけても、伝染
病に襲われ、一千八百四十三人がその毒手に倒れた。(御
問合控御手形写による)
 要するに、明和の津浪の為政家は、復興計画をたて、
首里王庁の認可を仰いで、まず政治行政、文化、交通の
中心地である石垣の町の復興計画をさきにかたづけなが
ら、地方の復興に全力をそそいだ。
 津浪で流された部落の再興事業に着手し、各離島や人
口の多い部落から、強制移住を断行してようやく部落建
設の復興事業を完成したが、明和の天災から、嘉永の災
難まで、八十二年間に津浪で九千三百十三人を失い、又
その間、伝染病や餓死、マラリヤ等のために、八千六百
三十三人、計一万七千九百四十六人という人命を奪い去
られたのであつた。
 古今独歩の政治的天才である具志頭親方蔡温が〝計画
した八重山〟開拓移民の大事業も又あらゆる八重山為政
家の大事業も、明和の天災と病魔の毒手と人頭税の搾取、
酷使の三大敵をうけて、これに対抗する革命的人物の輩
出がない上にこれにかてて加えて島津や首里王庁の巧妙
な政策のために〝諸役人等が全部去勢〟されて、対抗力
を失つた結果、敗残の姿のまゝ明治十二年(一八七九)廃
藩置県の新政を見るようになった。この新政こそは、全
琉球での一大革命ともいうべきものである。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 142
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 沖縄
市区町村 石垣【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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