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項目 内容
ID J2600629
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1771/04/24
和暦 明和八年三月十日
綱文 明和八年三月十日(一七七一・四・二四)〔八重山群島〕
書名 〔伊良部村史〕○沖縄S53・4・1 伊良部村役所
本文
[未校訂] また、明和八年(一七七一)の大地震と大津波の状況を
球陽から転載すると左記の通りである。
 「明和八年三月十日宮古、八重山に大地震す、海水騰
漏して多く、土地人民を損す。この日辰刻大いに震う。
退潮のとき、屢次海水猛騰して満潮の如し、而して一刻
の間に大浪[騰涌|とうよう]すること三次、或るいは三丈五尺或るい
は二丈五尺或るいは十二、三丈にして、大岩を岸上に揚
置す、其岸海際に高きこと五丈許りなり、伊良部島内の
仲地、佐和田、伊良部、前里の四村は大浪に冲壊さる。
佐和田村は洪浪人家を通越し対岸の下地島は悉く洪浪に
[洗蕩|せんとう]せられ、一物も存することなし。大小の石塊、白砂
は堆湊して石原と為り、當今村籍を置き難し。凡そ損す
る所を挙ぐれば、各村浪(宮古各村)に漂さるる屋一千五
十四軒、浪に浸さる屋二十五軒なり。此の時の状況左の
如し。或るいは他村の人民事あって過ぎ来り淹死する者
あり、或るいは浪を被るの村民行て他村に在り、乃ち性
命を保つ者あり、或るいは房壁材木等に着して数日漂流
し、遂に岸に上って存命する者あり、或るいは屋に覆わ
れて負傷し殆んど危命に及ぶ者あり、在番、頭目等心を
尽して調治す。或るいは其難を[廻避|かいひ]せんとして[流蕩|りゆうとう]せ
られたる者あり、或るいは洪浪の騰涌し来るを料らず津
[辺|へん]に行き以て船隻を守らんとし生命を衷うものあり、諸
役人民溺死する者、男一、一四九人、女一、三九九人に
して計二千五百四十八人なり、又人家の浪を被らざるこ
とあるも、而も或るいは土地損壊することあり、凡そ損
する所の田畝賦数二石六斗四升三合六勺、圃場賦数四三
○石八斗九升三合二勺三才、上木穀数七石六斗六升二合
五勺七才、共計四百四十一石一斗九升九合四勺なり、そ
の土地共に一百二町九端五畝二十七歩に充つ、破船大小
七十六隻、斃馬四百三疋、斃牛二百三十八匹、損橋三座
及び障潮のアダン木地二十九万九千四百坪、ススキ原六
万二百坪、茅原十二万百坪、藪地二万千坪、各村番所六
軒、織布屋十六軒、藍蔵五軒、船具屋一軒、俱に漂流せ
らる。在番頭目等急に人民を聚め、諸役を派揆して波浪
に淹され、房屋に覆われ、木石に衝れて死する者の死骸
を収葬す。又勤番人を𫝼して各海辺に赴き、凡そ屍骸随
って漂来すれば随って収埋す。又家財を漂失して[空身|からく]命
を存し、及び傷を受くる者あれば所用の穀を発出し、粮
食を支給して以て[賑済|しんさい]をなす。急に飛舟を漕ぎて来報し、
恭しく御覧を呈す。主上宮古、八重山島を隔つること遠
らざるを念い、亦洪浪に洗蕩せらることあるを恐れ、宸
襟安んぜず、即日向允良(源河親雲上)に命じ以て巡察を
なさしめ、且つ土地を損じ人民を失う事、至重に係るを
念い誠に躬行併に政務宜しきを失うの致す所に由るを恐
るなり、昼夜畏慎す。四月二十四日躬ら国相、法司、御
物奉行、申口等の官を率いて崇元寺、円覚寺、天王寺等
に詣でて神霊に拝告す。又多良間島は悉く稼種を損して
飲食欠乏す、尽く儲穀を発して賑済するも、尚未だ敷く
ことあらず。請う新穀未熟の内は食を続くの穀並に賦税
の穀、村用の穀は皆難を免る各村に令して派出せしめん
ことを。水納島は房屋悉く浪に洗蕩せらる、租布を免ぜ
んことを請う。宮国、新里、砂川、友利の四村は悉く居
民を失うて圃場を損すること少なし。受くる所の土地多
きに過ぐ、長浜、佐和田、前里、国仲、仲地の五村は土
地多く損じて圃場欠少す。請う宮国等四村の戸籍を将つ
てかの本村背後の高地に移し、又長浜等五村の人民を派
𫝼してかの四村に配入せんことを、在番頭目群請す。此
れに因り其請う所の如く之れを允す。」とあり、伊良部
島の津波による損傷言語に絶するものがあったのに不
拘、宮国、新里、友利、砂川等の四村人命を損傷する者
夥多と称して、伊良部、国仲、佐和田、前里、仲地の五
村の人々を前記四村に移住せしめることとせり、その内
訳左の如し、伊良部、仲地よりそれぞれ四戸を宮国、新
里へ、前里、国仲よりそれぞれ四軒を友利へ、佐和田、
長浜よりそれぞれ四軒、砂川村への移住を強制せり。明
治四年壬申の戸籍作製の際、前記伊良部島の移住民は悉
く、故地に帰ることを許可せり。と蔵元の記録なり(宮
古島旧記・球陽による。)。
一七七一
尚穆
明和8
乾隆36
○三月十日大津波あ
り、伊良部島の伊
良部、仲地、佐和
田、長浜、前里村
大半を波にさらわ
れ、下地島は全島
埋没す。死者四四
○人。
一、明和八年辛卯(一七七一)三月十日友利、砂川、新里、
宮国、伊良部、国仲、長浜、前里村に前代未聞の大津
波あり、波の高さ十二、三丈に達し、遭難者二、五八
○人を出す。其他船舶七六隻破損、女馬の斃死六四一
頭に及び、家屋は倒壊し、田畑は押流されて惨状を呈
した。当時の遭難死体は与那覇南浜に合祀し慰霊碑を
建てた。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 137
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 沖縄
市区町村 伊良部【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

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