[未校訂] 寛保元(一七四一)年七月八日ごろから西部大島が大噴
火を起こしたとの風評があったが、一五日、一六日には
江差地方に灰が降り、地上に積ること数寸、昼灯をつけ
ねばならないようになり、一六日からは福山に一七、八
日からは東北在に灰が降り、一九日払暁には大噴火を起
こし、海上鳴り渡り、西部諸村の海岸の水が退いたがま
もなく明六つ時前、津波が襲来し、[根部田|ねぶた]から熊石にい
たる三十里の海岸において、溺死する者土着者千二百三
六人(うち男八百二六人、女四百一〇人)他国の者僧俗と
もに二百三一人、合計千四百六七人、流失家屋七百二九
戸、破壊家屋三三戸、流失倉庫四棟、破壊倉庫二十五棟、
大小の船舶破壊するもの千五百二一隻(うち漁船千三百
二九隻)におよんだ。この津波は津軽、両羽および北越
地方におよび、津軽の西海岸においては八二戸流失、死
者一四人におよび、人畜の死傷および家屋の流失も多く、
佐渡もまた家屋若干が流失した。八月福山の僧侶らが願
い出て立石野で[施餓鬼|せがき]を修行し、ついで無縁堂を建てて
死者の霊を弔らった。一二月一六日には灰が降り、平地
に積ること三寸余におよび、翌二年正月四日にもまた灰
が降った。以後も長い間煙を噴いていたとみえ天明六年
の蝦夷拾遺にも、大島常に煙を吐くとしるしてある。