[未校訂]松前、江差方面の死者は一、四六七人
寛保元年(一七四一)大島(松前沖)が噴火した。松前藩
の古記録「福山秘府」によれば、その年の七月十六日(旧
暦)、まず「西部大島発火、震動大山の崩るる如く、ま
た白灰雨(ふ)り、黒砂地上に積る、深さ数寸」とある。
その十九日には「海洋響きをなし……海水大いに溢れ、
海辺すべて海となる」といった状態で、松前から熊石ま
での三〇里(一二〇㎞)で、溺死者一、四六七人、家蔵流
失破壊七九一戸、大小船破壊一、五二一隻という大惨事
になったのである。このとき津波は遠く島根県の方にま
で及び、津軽(青森県)でも死者八人、家屋流失八二戸と
いう被害であった。
この当時の和人地の数からすれば、住民の約一割が死
亡したことになるが、熊石の人口は定かでないので判然
としない。
寛保元年の相沼無量寺の過去帳によれば、その年の死
亡者一二二人中、津波による溺死者は実に一一八人に達
しており、法蔵寺の記録でも三〇〇余人が死亡したこと
が記録されている。法蔵寺には元禄四年銘の半鐘があり
津波で法蔵寺も流失したが、この半鐘は町から遠い八つ
岳の麓で発見されたといわれている。
この頃の久遠は、ウスベシ、オオタに漁場があり、入
漁者、漁船があったと思われるが、被害状況などについ
てはそれを知る文献はなにもない。