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項目 内容
ID J2600033
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/01
和暦 文禄五年閏七月九日
綱文 慶長元年閏七月九日(一五九六・九・一)〔豊後〕
書名 〔東予市誌〕東予市誌編さん委員会S62・10・1 東予市発行
本文
[未校訂](2) 文禄五年(一五九六)=慶長元年の大地震
 この地震はM七・〇で、京畿、四国、九州が被害甚大
であった。歌舞伎の「地震加藤」で有名で秀吉が居た伏
見城では、五七三人が死亡し堺の町では六〇〇人、豊後
大分方面では津波と地盤沈下のために[瓜生|うりう]島と久光島が
海底に没し、瓜生島では七〇八人が死亡したと言われる。
この年は、諸国に[霖雨|りんう]が続いて洪水が起こり、岩木山や
浅間山が噴火して災害の多い年であった。
 当地方でも、広江村の『密林山徳蔵寺由来記』の中に
「慶長元丙申七月上旬大地震動シ、村宅[湮没|いんぼつ]、寺社亦不免故[㠯|イ]ヲ、庶民遷居シテ構今之一村。」とあって、現在[元|もと]
広江というホノギの場所に村があったが、この地震のた
めに地盤沈下で低湿地になったので、土地の高燥な現在
地に集団移住をしたことを伝えている。
 また『多賀村郷土誌』の鶴岡八幡神社の項に「文禄四
年閏七月九日[戌|いぬ]刻、震災のため壮大なる宮殿、宝蔵、神
器、記録に至るまで大半顛倒して地中に陥没す」とある
が、文禄四年は文禄五年(慶長元年)の間違いである。今
の部落の下にある「神主屋敷」「鳥居の本」などのホノ
ギのある場所に鎮座していたのを現在の地に遷座して社
殿を復旧したことを記している。
 この二つの記録から、広江・北条など海岸近くの場所
が、地が裂けたり、地盤沈下の被害の大きかったことが
うかがえる。
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 16
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 愛媛
市区町村

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