Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2600018
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1512/09/13
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1512/09/23
和暦 永正九年八月四日
綱文 永正九年八月四日(一五一二・九・二三)〔阿波国宍喰浦〕
書名 〔徳島の地震津波―歴史資料から―〕猪井達雄他著S57・2・20
本文
[未校訂]徳島市立図書館発行
第四章 歴史資料にみる津波の記録
一 永正、慶長、宝永、嘉永の震潮記 ―村役人の記録―
徳島県海部郡宍喰町の古文書で、和綴じ四針眼「田井
及一」と白紙に記し添付してある。表紙は薄茶色、中表
紙は白紙、裏に「本会目録に留め永く保存致候、大正二
年九月一日、徳島県物産陳列場、民政資料展覧会印」と
書かれた紙片が添付されている。
『永正九年八月四日 慶長九年十二月十六日 宝永四年
十月四日 嘉永七寅年十一月五日四ケ度之震潮記』
宍喰浦成来旧記之写
一 当浦之儀永正九(一五一二)年八月に洪浪入り惣処残
らず流失 処の城山へ逃上る者数拾人也 南橋より向
之町分も残らず流失 然れども此所は山近く多くの死
人これ無く候 橋より北分の町家は多く痛みこれ無く
候得ども死人多くこれ有り候 およそ其の節 両所の
老若男女とも三千七百余人なり相助人一千五百余人也
橋より向之町家残らず流失 土地ことごとく掘れ一面
の川成り 在処残らずにつき相助かる両町の者 相集
い城主藤原朝臣下野守元信公同宍喰村城主藤原朝臣孫
六郎殿御両殿諸寺諸社は申すに及ばず町家も残らず
それぞれ町並にして御取立下され候
一 御取立の諸寺諸社合拾三ケ処也
内 九ケ処 寺 此内五ケ寺真言宗也
同 壱ケ寺禅宗 弐ケ寺浄土宗 壱ケ寺岡山薬師堂
同 四ケ処 社 祇園拝殿一供一ノ宮
八幡本社拝殿共
愛宕社壱ケ処南山の上に有り
一 御城内分は痛み少々 下屋敷御家中町御取立家数百
三拾軒也
一 町家千七百家郷浦とも也
内 六百五拾軒配(拝)地(知)百姓
同 千五拾軒町家なり
一 先年より当浦東海辺に大松原これあり此松切払い其
外 北南西に林山処々これある分 残らず切払い家道
具にいたし候 寺社とも家数惣合千八百五軒也 永正
拾年十二月中旬に此通相済書附なり
一 永正九(一五一二)年之大潮には愛宕山に城有り土居
に大手之大門ありて是を閉じ候ゆえ城内へ入る事 成
り難く死人多くこれ有る由申し伝う
九ケ所寺々名附処付
一 壱ケ寺城山大成院惣感寺禅宗御殿御菩提寺知行付寺
内城山南西へ引廻し大薮之内也
一 壱ケ処大師堂談義所也 先規よりこれあり此寺浦里
結衆持にて七月七日に此寺にて法界万霊之廻向所也
浦里拾六ケ寺の真言宗談義所へ相揃い七月七日より十
四日迄 不断会町中より志有りて衆僧を供養し盆施を
いたし先祖之水祭いたし候 此の寺 唐草之両界涅槃
像そのほか諸品仏道具御両殿より御寄進寺内所は城山
より丑寅(北東)に当たり松原之外馬馳処の脇なり堂は
七間四面に御取立
一 壱ケ処 真福寺 真言宗なり寺内本供寺 酉ノ方北
城山之西下
一 壱ケ処 円通寺 真言宗なり 鈴峯山 別当寺内北
城山より戌亥(北西)之方に高山古跡霊場今年迄百八拾
年余に成るなり 弘法大師之御開山なり円通寺は鈴峯
山大門の下脇に有り
一 一供一ノ宮祇園本地供所なり 毎年此の所にて正月
七日的初有りて五穀の祈祷所なり土地は安養寺谷之上
にこれ有り
一 壱ケ処浄土宗安養寺鈴峯山の南之下すなわち安養寺
谷と申す所なり
一 壱ケ所祇園社土地は岡ノ山安養寺より丑寅(北東)に
当たる所なり
一 壱ケ所八幡社土地は中川原なり安養寺より南に当た
り小山有り 此の所に角井久文水(久斎カ)と申して社
人有り御両殿より社田等 御付置これ有り候
一 壱ケ処薬師堂土地は岡ノ山上野と申す処に有り別当
聖福寺真言宗なり藤井山重輪院と申して宍喰村城主孫
六郎殿御菩提寺 知行として田地五反御付置これ有り

一 馳馬村と申して家数弐百軒余の在処なり 往還道筋
一 角坂村観音堂禅興寺御両殿の御帰依仏なり 家数百
五六軒これ有るなり
一 大山権現古跡坊数拾弐場有り唐より相渡り候小鐘壱
ツこれ有り この山に唐木と申して名木有る在処あり
塩深村と言う 谷々数ケ処これ有り家数三百家余これ
有り宜しき所なり 往還道は大山より北手へより鳥居
坂とて大成る鳥居立ち有り殊のほか権現衆人信仰 参
詣人多くこれ有り候
一 大山別当大瀧山藤野坊と申して拾弐坊の本寺なり寺
内は大山の中程に有り外寺にもその両脇に立ちこれ有

古き人々の言い伝えを聞きしに永正年中(一五〇四~
一五二一)より天文(一五三二~一五五五)迄は この
書記しの通りなりしかどまた天文拾八(一五四九)年の
頃より乱世度々にてその後に段々かわり元亀三(一五
七二)年の末より乱世鎮まり天正元(一五七三)年に海
部壱郡を左近之将監と申して切敷領主成りたりと申候
また壱説に益田豊後殿より太平に成りしとも申伝へ候

右は日比原川島氏にこれあり候 処々旧記書写置き候

(注、〔宍喰町誌 上〕S61・3・30 佐藤浩海発行 に
はこれの現代文訳がのっている)
(円頓寺開山住持宥慶之旧記)○宍喰
当浦成来旧記書之写
永正十一(一五一四)年正月に書記すとこれあり候
一 当浦之儀 永正九(一五一二)年八月に洪浪入り候て
惣所分残らず流失いたし申す也 其の節 所々城山へ
にけ上る者数十人也 南の橋より向の町分も残らず流
失 然れども此の所は山近ゆえ多くの人死もこれなく
候 橋より北分の町は町家は多くいたみもこれなく候
へども死人多くこれあり候 凡そ其の節 両町の人老
若男女とも三千七百余人の相助し人 一千五百余人也
其の頃橋より向の町家 一家も残らず流失 其の上
居屋敷土地悉く掘れ流れ一面の川に成り候て其の後
在所成り申さずに付き相助かり申す両町家の人 当浦
へ相集り所の城に藤原朝臣下野守元信公 同宍喰村城
主藤原朝臣孫六郎殿御取立これあり諸寺諸社申すに及
ばず御取立 町家の分も残らず それぞれ町並にして
御両殿として御取立下され候
一 御取立の諸寺諸社 合拾三ケ所也
内 九ケ所は寺 此の内五ケ寺真言宗也 同壱ケ寺禅
宗 同二ケ寺浄土宗 同壱ケ所岡ノ山 薬師堂 同四
ケ所 社 祇園拝殿一供一宮共 八幡本社拝殿共 愛
宕社壱ケ所南山の上に有り
一 御城内分は いたみ少々にて候 下屋敷御家中御取
立家数合百三拾家 此内十五軒は御城内分
内百十五軒 諸家中
一 町家千七百家 郷浦とも也
内六百五拾軒 配地百姓(拝知百姓)也
内千五拾軒 町家也
一 先年より当浦東海辺に大松原これあり この松残ら
ずきり払候 其の外 北南西に林山所々これある分
残らず皆きり払い家道具にいたし候
五 大地震洪浪見聞筆記 ―国々の記録―
 呉郷文庫のなかには 旧家寺社等にある古文書を筆写
したものが和綴じにされかなり 保存されている 『那
賀郡仁宇谷騒動録 大地震洪浪見聞筆記 御掟書 全』
(徳島県立図書館蔵)は和綴じ六針眼で ていねいに製本
されている
 そのなかの『大地震洪浪見聞筆記』を解読したが 海
部郡鞆浦 善祢寺九代住の住職が 自己の体験と 国々
の筆記をとりよせるなど後人のためを思い記したもので
ある
『安政三辰七月迄 大地震洪浪見聞筆記 海部郡鞆浦善
祢寺九代住』
(内容)
○ 永正九申(一五一二)年八月洪浪入り候て宍喰浦中残
らず流失 その時 老若男女三千七百余人死亡しもっ
ともこの時 浦の城主藤原朝臣下野守元信公 村の城
主藤原朝臣孫六郎殿この両主 領せし家数下屋敷御家
中百三拾軒このうち拾五軒は御城内分 百五軒は諸家
中町家千八百五軒 郷浦寺社とも うち百五拾軒は配
地百姓なり この記 宍喰にこれあり此の度 写し置
く 安政二卯(一八五五)まで三百四十五に成る
(地震 津浪 嘉永録)
 永正九申(一五一二)年八月津浪にて宍喰浦残らず流失
ありその時 老若男女三千七百余人死亡し もっとも浦
の城主藤原朝臣下野守元信公同じく村の城主藤原朝臣孫
六郎殿 この両主領せし家数下屋舖御家中百三拾軒この
うち拾五軒は御城内分 百五軒は諸家中 町家千八百五
軒 郷浦寺社とも百五軒は拝地百姓なり この記 宍喰
浦にこれありしをもとめて写し置くものなり
出典 日本の歴史地震史料 拾遺
ページ 8
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 徳島
市区町村 徳島【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

検索時間: 0.003秒