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項目 内容
ID J2500607
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔金沢円後文書〕○江戸森鋭三・金沢俊一編S43・9・5
本文
[未校訂]十月二日大地震本石町居宅大損此夜家族一同、三河町隠居
家迄立退す、又護持院ヶ原迄立退是より五、六日間、毎
夜隠宅の庭に露宿す、但し奥の者計り
安政五午年
去る卯年地震にて居宅土蔵大破損、此火災後三ヶ所の土
蔵改築す、又更に一戸を造築す
(後弊箒集)
一、安政二卯年十月二日夜四ツ時之江戸大地震は世人の知
る所にして其事柄は諸書にも見えたれ共当家当時之事を
聊左に誌し置。
大地震之年は予は十歳にして当夜父君に三之段之算を教
えられ燈下にありたり。夫れ地震よと云ふや、否や父母
並に祖母、行徳の伯母、姉千恵子も居れり、(祖母様の妹)
等と共に一同に立さわぎ台所の中央に出たるに家人東西
より追々集り男女三、四十人計主人を中に取こめ一団と
成りて立居たり。幸ひ家も崩れず皆無事なりしが若し家
の潰れる様なれば此一団は皆死傷せしならんと後に思へ
ばおそろしかりし。又三ヶ所の蔵は何れも土ぶるひ柱骨
あらはれ火に堪る事能ず、是も幸ひにして近隣火を失せ
ざりし故、伝来の諸物全きを得たり。隠居番頭平八なる
者当夜泊り番にて店にあり、夫れと云や直ちに中の間を
通りぬけ表蔵の戸前に遁れ来りたるに土蔵の大壁一枚の
板の如きなるが落来りて其下になれり。然るに不思議に
も職場にて用ゆる饀しめの木(長さ一間半位)の太きが平八
の上に倒れ、其上へ土壁の大なるが落て重りたれば幸ひ
にも一命を助りたり。後此締木を命の親とし能く洗ひ様
して神酒を供せしはおかしかりき。此夜家内を手配けし、
奥一同並に男女の内十四、五人計りは、三河町の隠居方
へ至り、夫より護持院の原え立退野宿せり。其他店の者
職方下働き等三、四十人は宅に止り厳重に宅番せり。此
夜以来凡二十日間程、予は三河町隠宅に泊り昼は石町宅
え震後破損の修繕の為に参り候。諸職人、見物様々参る。
夜は必ず隠居家へ戻庭中の仮小屋に両親及女中共と寝た
り。震災に罹り石町本宅下谷出店、三河町隠居所何れも
大破三、四年間にて普請全く終る。火災なきは日本橋の
南北、内神田、両国辺等なり。丸の内は酒井雅楽頭上屋
敷焼失、両丸は無事、行徳渡辺若主人の妻、地震の為め
圧死す。翌日三日便来り、此方に参り居候伯母即刻行徳
へ戻る。
(中略)
一、安政地震の際土蔵大破に付修繕中諸道具類を悉く王子
在下村の百姓清右衛門方え預く、長持凡二十棹、外に大
小の櫃類数多是は何れも奥蔵の道具衣類のみなり。商業
上の道具にはあらず、清右衛門と申は両店の沢庵を漬込
者也。一ヶ年の沢庵凡百樽以上を注文す。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 942
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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