[未校訂]広村海嘯関係古文書目録
一、宝永四亥年津浪並大変控 湯川藤之右衛門蔵
一、築浪忘れ草 山本、白木徳兵衛蔵
一、別本築浪忘れ草 安楽寺蔵
一、波戸普請願書案文 広村役場蔵
一、明細取調御達帳明治六年七月 同
一、広浦大波戸再築記録 広八幡神社蔵
一、御代官文書 大阪、広浦竹次郎蔵
一、広浦往古より成行覚 広村役場蔵
一、大波戸御普請御用留 同
一、安政元年海嘯の実況 浜口儀兵衛蔵
一、海面王大土堤新築原由 同
一、安政聞録附図一名如夢実話 養源寺蔵
感恩碑の由来
昭和八年十二月五日発行
編纂者 浜口恵璋
感恩碑建設発起人惣代
発行者 戸田保太郎
(注、 「『稲むらの火』の教方に就いて」今村明恒「和歌山県有田郡広村防波堤及び防波林の由来」浜口儀兵衛「海嘯に関する座談会記録」は興味深いものであるが省略する)
3 安政の津波と広浦町人
近世広浦第二の受難は、安政の大津浪であった。同浦の
運命は津浪によって左右されるところ多かった。その例を、
個人だが雁仁右衛門家に取って見よう。同家は早く銚子に
出店を持ち、本家は醬油袋の製造、店は米屋、また別の店
は海産物問屋と三種の商売をしていた。後に醬油醸造業を
始めるが、嘉永七年の大津浪以後であったらしい。(嘉永
七年は安政元年)
雁家には、同家の今昔を記した旧記がある。上記したこ
とおよび嘉永七年の大津浪の被害が記録されている。
嘉永七年(一八五四、同年十一月二十七日、安政と改元)
十一月五日、大地震大津浪によって、またもや広浦は壊滅
的な大災害を蒙った。その詳細については、別掲『感恩碑
の由来』を参照されたい。ところで、雁家記録には同家の
被害が詳しく記されている。左にそれを引くと
嘉永七年寅十一月五日八ツ半時大地震津浪入来り申候
一、我等(等)家并貸家共都合拾四軒流失、蔵弐ケ所其外
諸道具不残流失、家内にけがなし、其時之商売は本家
ハ江戸行醬油袋織屋、店ハ米屋、同店ハ沖文問屋商売
都合三軒商売致ニ付流物品
覚
一、地米八拾七俵
一、麦五拾六俵
一、綿千五百斤余
一、石ばい五百俵
一、塩四百六拾俵
一、刻たばこ六百玉余
一、籾米四石
一、御年貢米拾三石
是ハ手作米也
外ニ色々売物数多筆ニつくしかたし、あらあら印し置候也
一、尤家財ハ不及申流失
一、諸道具不残流失
凡損符銀二十貫目余見積り
右はいうまでもなく雁家個人の被害である。広村全体と
なれば実に莫大な損害であったであろう。しかし。広浦商
人は怯まず、難民救済と災害復旧に力を注いだ。その中で
最も著名なのは云うまでもなく浜口梧陵(儀兵衛)である。
次いで浜口東江(吉右エ門)も知られている。雁仁右エ門な
ども救助米や、被害跡片付人足賃米を拠出した。その他有
力商人は殆んど、広の町復興にそれぞれ尽力を惜しまなか
ったが、特に梧陵の偉業は長く青史に残るであろう。
その頃、関東筋・西国筋出稼網も打続く不漁のため、宝
暦頃四百二・三十軒であった広村戸数が、津浪の直前三百
四十軒前後となっていた。それが殆んど罹災したのである
から、広村の疲弊言語に絶する有様であった。だが、広商
人はその泥海から直ちに立ち上り、広浦の再興に尽力を惜
しまなかったが、疲弊が余りにも酷すぎた。
なお、ここでもう一つ付け加えるならば、商業利益や工
業利益で富をなした広町人達は、殆んど例外なしに大小地
主化してゆくことである。極めて近代は別として、常に農
民は貧しかった。少し凶作でも続こうものなら、すぐ年貢
未進となる。そのような際、農民は富有商人に田畑を抵当
として借銭することがしばしばあった。所謂、本銀返しで
ある。運悪く返済できないときは、当然、その田畑は債権
者の所有に帰した。そして、次第に地主化してゆく例が多
かった。生活に困った弱百姓の零細農地を次ぎ次ぎ買取っ
てゆくうちに、自然と地主階層に成長していったのが、た
いていの広浦商人の一面であった。
上来累述した如く、幾たびの試練や受難を経た広浦町人
であったが、彼等は不死鳥の如く生きぬいた。その活動を
偲ぶかの如く、いまも、和田の出崎に波浪に堪えて波止場
が残存している。