[未校訂]嘉永大津浪の記 熊代繁里
今度いたくなゐふりて津波よせたりしかど、鹿島の犬神
の御守にてこの里いとおたしく平かなりしをいともうれし
く仰ぎかしこみて、大御稜威の尊さの千々が一つを讃へま
つり、喜びを叙ぶる長歌並に反歌…………中略
註、嘉永七年十一月四日及五日大地震あり、同年十一月
二十七日安政と改元したので俗に安政の大地震と称する、
なゐわ地震の事おたしくはおだやかの意
次に大意を述べる。
草木も枯るる霜月の五日の夕方に、大きな山を割る程の
大地震がゆって家を倒し、高い山も今に崩れるか大きな河
も今は干上ってしまうかと安い心も失って、どうしてよい
かわからないままに、家を飛び出し町中に立っていると、
大雷が天雲を踏みならして鳴りわたるように五六度海の底
が鳴り響いて、大きな津浪が押しよせて来た、誰も彼れも
度を失ってにげまよって、立ったり座ったり、泣き叫ぶ声
の悲しさを見聞して居る内にも、家も流れてしまうだろう、
家人も流されるであろうと失心してぼんやりとしてゐたが、
ああ有難い流れなかった、南部の海に神代から鎮まりまし
て今に霊験の高い鹿島の神が守らせ給うて、浪を左に右に
はらいのけて下さった、だからこそ、この南部の浦には、
野分の折りの風波ほどの波がよせただけである、若し鹿島
の神が守って下さらなかったら、老若男女をとわず或は岸
に押しながされたたかれて磯辺に砕け死んだであろうに、
有難いけ高いつよい神の御力は何とも云えない、ふしぎで
ある、いつまでも鹿島の神の尊さを忘れまいぞ
反歌
南部の浦がいつまでもさかゆるようにと鹿島の神が守っ
てくださるのである。
能代繁里は文政元年南部町に生れた国学者、紀伊国名所
図絵手伝、田辺藩国学教授、本宮権宮司、紀伊国神社取締
を経て明治九年五十九才で歿。
井上豊太郎著「詳解紀伊郷土文献拾遣」より。
浜之瀬に残る津波記念碑
津波紀事
後世も大なる地震の時は、必ず津波起ると心得て浜中の
人々は大松原の小高き所に集まり居るべし。さあれば高浪
の患へまた地震の恐れなかるべし、舟などに遁れんとなす
べからず、諸人此事をゆるがせに思ふましきもの也
因に嘉永七年寅年霜月五日の大地震つづいて津波起り来
れり初めに地震を避んとして、舟に乗り川内に浮び居し
輩沈没せしこと誠歎し、よって後世之為に其あらましを
録し畢りぬ
山♠文久壬戌のとし夏五月良日
木村理三郎
藤井 瀬戸佐一郎義健建之