Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J2500522
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔下津町史 通史編〕下津町史編集委員会S51・3 下津町
本文
[未校訂] 大地震と津波(安政元年)安政元年(一八五四)十一月四日
五日大地震と津浪あり。この地震は遠州灘を震源地として、
四日正午頃より地揺れ激しくて人々はおそれをなしていた。
翌五日は風もなく日本晴れの好天だったので農家はみな耕
作に出た。午後二時頃はげしい震動があって歩行も困難、下津
[馬囀|うまこけ]橋付近では二、三寸も亀烈ができ、大崎では軒と軒と
が衝突したといわれ、畑にいるものは木にすがり、家にい
るものは家財を放置して稲荷神社に集まり神社北側の竹藪
に一斉避難して念仏を唱えたという。そのあいだ激しい震
動つづき午後五時頃にいたりて沖合はるかで大砲連発のご
とくもの凄い音がしてたちまち大津波来襲、これがいわゆ
る大海嘯と呼ばれ三〇分後に退潮した。三〇分を過ぎて第
二回目来襲し、大きさは前に倍し、さらに三〇分をおいて
第三回目の津波が襲ってきたがこの時は初回程度で漸次減
少して日歿頃ほとんど静穏となった。この高波は下津新田
の道路上七、八尺で潮先は大字上小森神社(現在の下津小学
校校庭の樟木の所)付近まで潮があがった。潮の進退は至極
緩漫であったので、波の大きい割合に被害少なく、大崎港
では約五尺の浸潮家屋三〇余軒、大字方では長屋建倒壊二
戸、森下喜三郎方の引臼が一丁あまり流され、また下津港
付近では前日来海水膨張し、当日の朝はほとんど道路の高
さになり、二回目引き潮の時には、外瀬戎神社より脇の浜、
大崎村の境までの海底が見え、大崎でも今の丸善石油タン
ク付近の海底が見えたという。下津浦付近の被害は、椀屋
惣介娘引潮にのまれ溺死、船舶二、三隻破壊、新田半蔵方
納屋半壊、年貢米積み込みの大船や柑橘船など数町も陸地
に押上げられた(『安政大地震洪浪記』 『浜
中村誌』 『大崎村誌』
) 『阿弥陀寺
過去帳』(史料
編上
)によると、この年の四月御所全焼、六月
一四日地震長くゆり、九月一六日に五、六千石の異国船渡
来、十一月四日朝地震と海鳴り、五日夕七つ半大地震鳴物
し、しばらくの間に大津浪となり村中は潮につかる。当寺
の北東の角石垣五尺ほどつかる、光輪寺は庫裡の軒より二
尺も津浪潮あがると、なお付近の侵水情況をのべている。
また津浪は六回ほどで三回目はもっとも大きく夜大地震の
あと毎日微震がつづく、十二月十四日の夜も地震あり、ま
た十二月三十一日に伊勢路へ漂流の一八、九人乗りの千石
くらいの唐船が翌二月十一日に塩津港にはいる。この船は
三月二十二日に長崎へ送り出すなど前代未聞の騒動の年で
あったので書きおくとなっている。津浪におそわれた被害
とその後の状況を見ると、「十一月五日の津浪は前代未聞
の大汐で、寺も檀家もまことに難儀している。住職は本尊
様と開山様を、妻は蓮如様以下代々を守ってようやく逃れ
たが、諸道具一切流出し、致し方なく近くの阿弥陀寺へ同
居させてもらっている。御検分のとおり当村は難渋場所で
いつも上様に御苦労かけますが、この度は堂も仏具も大破
して仏檀も安置できないありさまですから、御慈悲をもっ
て銀二貫目を二十年年賦で借用したい」(『下津光輪
寺文書』
)と
の願書を関係者連署のうえ寺社奉行所へ提出している。さ
らに鷺森御坊輪番所あてには、「私共同宗近寺のものが見
舞いにいった所、殊の外寺檀共に大汐入に困っている、御
開山以下どうにか守護して逃れたが、教春恵教拙誠三代の
御免書諸書物ならびに寺内諸道具流してしまった、家族は
阿弥陀寺へ同居させてもらっている。かねて下津浦は難渋
場所でいろいろ御配慮にあづかっているが、このたびは特
に困ったことでありますので、銀三貫目をごく易い年賦で
十五年の間借してやってほしい。享和の頃か、または文化に
も御殿へ壱貫目余り用立てしたことがあると聞きおよんで
おりますが、それはその後相済んでいることと存じます。
その控書もありましたが流してしまって残念至極に存じま
す。何卒願のとおりお聞きあげ下さい」と五カ寺連署で提
出している。寺社奉行所に出した願には何の沙汰もなかっ
たので、翌二年四月次のような歎願書を出している。すな
わち「昨年津浪で阿弥陀寺へ同居させてもらっていただき
たいが、長居もできず十二月二十六日破れた台所へいたし
かたなく引上げましたが、朝夕のおつとめの場所もなく普
請をしたいけれども寺も檀家も流出などで一円の修覆金も
出ない有様です。昨年願出ました借用銀貫目何卒おきき入
れ願います。私の寺も観自在院様(八代藩主重倫)御成りの
時は屋敷を普請しましたが、それも借金してでありました
し、その借金も今に返済できていません。また年々代官衆
や役人様の御宿もしていることは御存じと思いますので、
このたびの御願を是非おきき入れ下さい」と過去の実績を
あげて再度歎願している。しかし何の音沙汰もなく救済の
手が延びないので、さらに「銀子拝借の件について御取扱
い下さっていることと存じますが、その間に再度お願申し
上げましたこと恐縮に存じます。実は他宗の堂の片すみを
借りて御本尊のおまつりも心苦しく、それも御城下の親類
縁者の畳建具を借り合せ雨つゆを凌いでいたものです。な
にとぞ先願の御取計らいを伏して御願申し上げます」さら
に観自在院様や役人衆のことも重ね書きつらね、「貧寺で
あり、檀家も不作つづきで家督品も売払って窮々としてい
るありさまですから格別の慈悲をもって願意をきき入れ下
さい。そうすれば本尊の給仕もでき、かつは御代官や役人
衆の宿も滞りなく勤めますから広大なる国恩をいただきた
い」と哀願している。なお、別院使僧あてには、「檀家は
御救米を受けているので寺の協力までできず、やむなく他
村へ勧進して、あらあら修覆したが内陣まで手は届いてい
ない。今までの納金は分相応に納めておりますが、先納の
備金弐両は時節到来まで延引してほしい」と次の住職が地
震後七年をへた文久元年十二月に届けている。『初島光明
寺過去帳』には「光輪寺は水底にあり、内陣にて五尺上り
台所の屋根の巴まで汐来り大荒大荒」と記しており、『大
崎常行寺過去帳』『紀伊様より松平伊賀守えの御達書写』
同じく『阿部伊勢守えの達書写』などには、被害状況が詳
記されている。これらの記録や文書によってもこの地震津
波は、かつてなく大きいもので、阿弥陀寺門前に舟をつな
ぎ、方南の人が梶久の山へ逃げるのに汐と一緒だったとい
い、再三にわたる長期低利資金の貸与もなかなか行われず、
不作のつづいたその後の住民の生活は思いに余るものがある。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 792
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒