[未校訂]4 嘉永七年(安政元年)津浪記
―御坊市薗浄国寺過去帳より。
干時嘉永七年甲寅冬十一月四日辰中刻俄に大地震。同日
五六度小[揺|ゆれ]あり。同翌五日申の中刻又大地震引続き津浪、
同夜四ツ時又大揺、同月廿日頃迄は日々[頻|しきり]に小揺、其後毎
日少々ツツ震事今に止まず安政二卯
三月下旬
。此霜月五日は冬至よ
り三日目也。[扨|さて]豆州より熊野汐ノ岬迄は四日辰下刻に津浪
上る、同日同刻当辺も[彼|かの]津浪の響にや海面浪高く鰹島は浪
にて隠れ、或は汐[干|ひっ]て常に見えざる処顕れ候事也。翌五日
は殊の外天気宜敷風も不吹、海も静なれば浦々に網つか
い致す程の事。然るに同日申の中刻、前日に倍する大地震、
[良暫|ややしばし]震うて[止|やみ]けると、海底鳴動して西少し南に[当|あたっ]て[大礮|おおづつ]
の如く[夥 敷|おびただしく]鳴音幾個と云う数を不知、耳を貫く[計|ばか]
り、其恐しき事云わん方なし。是津浪の前兆なり鳴時西の
方に黒雲
一と村有之、恰も其中にて響く様に聞へ候。
又右の響は何国にても西の方と聞へしよし
夫より引続き申下刻
津浪打寄せ、一番浪は[新薗橋|しそばし]まで、薗田にては宵宮の前迄
。二番汐は伏木浦迄。三番目は薗田鳥免辺迄、都合三度に
候。去る元禄十六年癸未十一月廿三日の津浪は、寄来る時
は甚だ[隠|おだやか]にして引汐[烈|はげし]敷き事にて有之しよし、亦夫より五年
[後|の]ち宝永四年丁亥十月四日嘉永七年迄百
四十八年になるの津浪も同断にて
引汐には烈しき由。
右両度の津浪前には[井|いど]の水乾き候由、其時汐は薗田鳥免
迄、当時本堂の雨だり石まで、又北塩屋浦王子権現の[層磴|きざはし]
三段つかり候由。
津浪は川口の[明処|あきどころ]に依り損亡の甲乙あるべし。此時は
川口西の方に[明|あき]ありし故ならん。
此度は塩屋川に[口明|くちあき]有之しゆえか、王子権現の層磴十
三段漬り、両塩屋の損亡甚し、尤も昔の津浪と違い此度の寄
来る浪は烈敷事恰も矢を射る如く、川口に繫ぎ有之大船小
舟一散に[逆|さか]流れ、或は岩内馬場迄上るもあり、又四百石余の
船野口村[高森|こうもり]川原迄上り候。又伏木浦川辺に囲い有之し材
木逆流れ、名屋浦又新町下野[端々|はしばし]の家を破り、其材木、薗
或は田井領、吉原領へ流れ行有之を見るに、[如何|いか]様水[嵩|かさ]
五寸にも[足|たら]ざる所に、尺余りの弐三間の材木流行き、
勢い寄来る浪の烈しき事可知。然れ共川口の明所に依る
か、薗田は鳥免少し[下|し]も迄、当寺も裏は[門外|かまえのそと]の畑け漬り
候へ共、是は西より押来る汐にて東は壱尺余も低し。又表
は門前の道まで、此汐も西より来たり東清水橋へ落る。
尤も汐は寄来るなり直に引く故、三度迄来り候へ共、其間
[僅|わずか]に一[時|とき]計り也。此変に恐れて薗御坊辺の人は、皆々丸山、
鐘巻、或は富安辺へ逃げ、五日の夜は薗御坊に人気なし。
併し当寺は昔の[噺|はなし]を聞伝え候故、家内壱人も不逃皆々東
裏にて地震を避け居候。乍去後難を恐れ人々の進めに順
い御本尊様并御宝物等翌六日入山三宝寺是は親類
故なり
へ預け置、
夫よりは地震も次第に穏に相成候故、同十二日迎へ帰り奉
る。尤五日津浪前に地震を恐れ、御本尊并に御影様等長持
に納め奉り、同夜は東シ裏にて奉守護、誠に恐れ多き事
に候。
此度郡中浦辺大荒左の通り、
切目嶋田村、印南浦、南塩屋浦、北塩屋浦、名屋浦、浜
ノ瀬、三尾、阿尾、産湯、比井浦、阿戸、横浜皆々
流失
、網代
浦中皆々
流失
浜ノ瀬には十三軒流失、同所には地震五日の
こと
を逃んとて
小舟に乗り居候て、津波のため十弐人溺死す。前に記す五
人も右十弐人の内にて小舟に乗り[竟|つい]に水死す。亦名屋浦源
蔵は上荷に乗り由良の湊網代浦にかかり有之し処、是も
津波のために命を失う事可憐々々。
又津波も御坊村にては中町は御坊裏門少し北迄、西町は
清水橋筋迄、東町は下少々、凡今度の津浪は此辺にては昔
の津浪とは五寸計り低きかと覚え候。又此度は津浪前に井
の水を見るに常の如し。
薗浦にても麦田畑四十町余流失。併し荒れの不同あり、
汐少し入り候処は津浪後六七の間は麦青々として夫より段
々と枯行あり。又枯跡へ早速麦蒔候へ共[生|はえ]不申、又[処|ところ]
に依り生るも有之。[菜花|なたね]は汐跡へ植候へども付き不
申候。当寺も田畑共二反余の麦不残汐にて枯候て迷惑の
事に候。
小川或は田畑へ[鯉|コイ] [螺|イ] [♠|ナス] [鱸|スズキ] [鯛|タイ] [鰈|カレイ] 其外川魚等夥敷汐
のために死し有之候を拾い得て食し候とも毒なし。
浜ノ瀬切レ戸は昔の津浪にて切れ候故名付候由、此度は汐
同所迄来り候へども越し不申候。
[倩 |つらつら]此度の時変を思うに、去る嘉永五子夏諸国大に旱魃
し、又翌嘉永六癸丑年も大旱にて同年秋西少し北の方に
[陽気星|ほうきぼし]顕る。亦今年寅も雨の潤い[鮮|すくな]し。如是前年より陰
陽和順より大地震にて和州奈良郡山又伊賀の上野、伊勢四
日市其外処々大荒れ、併し此辺は同夜度々震候へ共甚だ軽
し。又々此度の大変是れ陰陽不和順の故か。