[未校訂] 駿河、遠江、伊豆の三国に大きな被害のあった、世に言
う安政の大地震は、嘉永七年(一八五四)のことである。
駒右衛門の「殿様記録」の中に次のように記されている。
「嘉永七年甲寅十一月四日昼四ッ時より(午前十時頃)
大地震が入り村方は残らず、私の家も残らずつぶれた。其
の時、私の家は棟数九ツ有り(母屋・男部屋・女部屋・物
置・農具屋・かいこ小屋・文庫倉・漬け物倉・米倉)此の
世あらんかぎりの地震が入ったので、早速表や裏などから
飛び出した。若し、また大入り(大ゆれ)したならば、竹
藪に入ることにした。この地震で府中(静岡)・江尻(清
水銀座)・清水(次郎長通り)の家が残らずつぶれ、大火
に成ってしまった。此のあたりは言うまでもなく、大勢の
人が死んだ。[前海|まえうみ](駿河湾)から内海(折戸湾)を始め、
駒越村にもつなみが上り、村中つれだって有渡山に避難し
た。このことを末々の者(子孫に)申し聞かせる。この年
を安政元年と改めた。」というものである。
清水市郷土研究の記録によると、この日清水八ヶ町は居
宅・土蔵・物置・寺院等全部全潰した上殆ど火災にかかり、
即死した者五十人、負傷した者二百五十人に達した。江尻
宿の民家もほとんど全部倒潰し、その上火災となり寺院は
倒れ、慈雲寺は山門を残すのみ。駒越村居家は五十八軒潰
れ、蛇塚・増村は破損、加茂村は二軒残り、三沢、宮一色
は皆潰れ、村松村は凡そ百軒とある。