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項目 内容
ID J2500425
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東~九州〕
書名 〔駒越史誌〕○清水市 H2・6駒越史誌編纂委員会編駒越地区まちづくり推進委員会清水市駒越公民館発行
本文
[未校訂] 駿河、遠江、伊豆の三国に大きな被害のあった、世に言
う安政の大地震は、嘉永七年(一八五四)のことである。
駒右衛門の「殿様記録」の中に次のように記されている。
 「嘉永七年甲寅十一月四日昼四ッ時より(午前十時頃)
大地震が入り村方は残らず、私の家も残らずつぶれた。其
の時、私の家は棟数九ツ有り(母屋・男部屋・女部屋・物
置・農具屋・かいこ小屋・文庫倉・漬け物倉・米倉)此の
世あらんかぎりの地震が入ったので、早速表や裏などから
飛び出した。若し、また大入り(大ゆれ)したならば、竹
藪に入ることにした。この地震で府中(静岡)・江尻(清
水銀座)・清水(次郎長通り)の家が残らずつぶれ、大火
に成ってしまった。此のあたりは言うまでもなく、大勢の
人が死んだ。[前海|まえうみ](駿河湾)から内海(折戸湾)を始め、
駒越村にもつなみが上り、村中つれだって有渡山に避難し
た。このことを末々の者(子孫に)申し聞かせる。この年
を安政元年と改めた。」というものである。
 清水市郷土研究の記録によると、この日清水八ヶ町は居
宅・土蔵・物置・寺院等全部全潰した上殆ど火災にかかり、
即死した者五十人、負傷した者二百五十人に達した。江尻
宿の民家もほとんど全部倒潰し、その上火災となり寺院は
倒れ、慈雲寺は山門を残すのみ。駒越村居家は五十八軒潰
れ、蛇塚・増村は破損、加茂村は二軒残り、三沢、宮一色
は皆潰れ、村松村は凡そ百軒とある。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 550
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 清水【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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