[未校訂]1安政大地震
安政元(一八五四)年に発生したマグニチュード八・四
のいわゆる安政の大地震は、本県においても富士川沿岸の
峡南地域と、甲府市の南部に至る地域には、相当な被害を
もたらした。
本町における被害状況については、資料に乏しく知る由
もないが、わずかに残っている文書によって推察するのほ
かはない。ここにその文書を紹介して、当時の状況の一端
をしのぶ参考に供する。
恐れ乍ら書付を以て願上げ奉り候
八代郡嶺村名主、長百姓、百姓代一同申上奉り候、当村
儀は御高拾八石七斗余 家数拾四軒の極小村にて 作間渡
世として村持山林の立木伐出し市川大門村其外へ薪に売り
渡候土地柄にこれ有 且右通行道は字ひかげと唱へ嶮岨の
岩山道に御座候処 去る寅年大地震以来折々山崩れいたし
候得共 時々村中罷出で手入仕り通路罷在候処当十二月朔
日右場所長五間余高数拾丈欠崩れ候に付又々取詰通路いた
し罷在候儀の処当月廿一日夜猶又右場所長五拾間、高数拾
丈岩山崩落牛馬は勿論人夫通行更に相成らず殊に当村より
市川大門村迄の道筋は外にこれ無く必至と差支其の上右場
所儀此後の山崩れも計り難く極危難の場所に相成候得共当
惑至極依ては新道切開き候外御座無く候間何卒御見分の上
新道切開通路差支に相成らざる様仰付られ下され度願上奉
り候 以上
右嶺村役人惣代
安政四巳年 名主 才兵衛
十二月 長百姓 伝左衛門
市川
御役所
これは安政元年寅年の大地震で道路が崩落し、その後し
ばしば崩落するので別の所へ新道を開削していただきたい
との代官所への願書である。
恐れ乍ら書付を以て申上奉り候
古関川通り
定式用水御普請所
字矢ノ下
一、石垣延長拾間 平均高壱丈四尺、横三尺
同所
一 堰路長弐拾間 壱カ所
右は八代郡市之瀬村役人申上奉り候、私共村方の儀去る大
地震にて岩山凡そ弐拾丈程石垣押崩し前書の通り堰路押埋
め申候間之に依り此段書付を以て御届申上奉り候 以上
八代郡市之瀬村
名主 重郎右衛門印
寅十一月八日 長百姓 友右衛門印
百姓代 和十郎印
市川
御役所
この文書も地震のために水路の欠壊を訴えたもので、他
にも文書にあらわれないような被害が多くあったことが推
察できる。
さらにこの地震で被害を受けた者に対する小屋掛料拝借
小前帳によると
嘉永七年 三沢村
地震小屋掛料拝借小前帳
寅十一月 名主 文平
(注)嘉永七年は十一月二十七日改元により安政元年と
なったので同じ年である。
一金壱分 半潰家 松之丞印
一金壱分 〃 金左衛門
一金壱分 〃 喜左衛門印
一金壱分 〃 弥兵衛印
一金壱分 〃 丈左衛門印
一金壱分 〃 利八印
一金壱分 〃 常右衛門印
一金壱分 〃 与市右衛門印
一金壱分 〃 定之丞印
一金壱分 〃 周八印
右寄せて拾軒
右の通慥に奉拝借候以上
名主 文平印
長百姓 伊左衛門印
〃 利右衛門印
〃 為右衛門印
百姓代 喜平二印
〃 藤右衛門印
御役所
安政二年 三沢村
上金連銘帳
卯三月 日 名主 文平
弐拾七石八斗六升
一金弐両 文平印
外ニ増壱両
同又七両
九石弐斗六升六合内三石五斗隠居林右衛門持
一金弐分 利右衛門印
外ニ増弐朱
同三分弐朱
四石七斗四升四合
一金弐分 伊左衛門印
外ニ増弐朱
同三分弐朱
四石弐斗六升
一金壱分 為右衛門印
外ニ増壱分
同壱両
四石九升壱合
一金壱分 八郎右衛門印
外ニ増壱分
四石弐斗五升壱合
一金壱分 藤右衛門印
外ニ増壱分
三石弐斗五升九合
一金壱分弐朱 茂兵衛印
外ニ弐朱増上納
同弐朱
斗壱升五合
一金壱分 忠治郎印
外ニ弐分
弐石三斗四升八合 幸兵衛隠居
一金壱分 重右衛門印
幸兵衛代印
升
一金壱分 忠左衛門印
外ニ壱朱増上納
同三朱
三石六斗五升七合
一金壱分 友右衛門印
外ニ壱朱増上納
同三朱
弐石六斗四升七合
一金壱分 宇右衛門印
外ニ壱朱増上納
同三朱
壱石八斗六升八合
一金壱分 徳兵衛印
外ニ壱朱増上納
同三朱
壱石八斗九升
一金壱分 万平印
外ニ弐朱増上納
五石三斗五升九合
一金壱分 源兵衛印
外ニ増弐朱
外ニ増壱分弐朱
拾石六斗三升弐合
一金弐分 甚右衛門印
外ニ増壱分
同壱両壱分
三石弐斗九升六合
一金壱分 文兵衛印
外ニ増弐朱
外ニ増壱分弐朱
五石五斗四合
一金壱分弐朱 権右衛門印
外ニ壱分壱朱
又弐分
七石弐斗三升
一金弐朱 式右衛門印
外ニ壱両弐朱
石弐斗九升五合
分 与惣右衛門印
(以下紙破れて不明)
これで見ると代官所では、被災者救済金や貸付金とする
資金を、村々の有志に対して石高に応じて納金させたらし
い。その金額と名前が三沢村では前記の通りである。