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項目 内容
ID J2500296
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔自歴譜〕加太邦憲著S57・8・16 岩波書店
本文
[未校訂]安政元年([甲寅|きのえとら])六月十三日、非常の大雷雨桑名に襲来
し、[数多|あまた]の落雷被害あり。しかしてその翌十四日[丑|うし]の刻
(今の午前二時)、大激震ありて後、数日間昼夜[烈|はげ]しき余
震ありたれば、一般の恐怖[一|ひ]と[方|かた]ならざりき。これ[江都|こうと]大
震の前年なりき。右激震については、実に危険にして到底
屋内に[起臥|きが]する[能|あた]わざれば、庭園・道路・[土堤|どて]等に[仮小屋|かりごや]
を設け、幕・板戸等を以て周囲・天井を[蓋|おお]い、当座の避難
所とせり。予が家北部は板屋根にして石を以て押えありし
に、最初の激震において[凡|およ]そ二百箇の[石悉|ことごと]く地上に[転|ころ]げ落
ちしが、その屋上を転げる[響|ひびき]と地上に墜落の響と相混じ、
実に[凄|すさま]じかりければ、南庭に逃れ居たる一同は、家屋が北
部より[倒潰|とうかい]し始めたるものと[吃驚|きつきよう]したりき。隣町の[四日市|よつかいち]
は中央[目貫|めぬき]の市区全潰全焼し、四百内外の死者を[出|いだ]し、実
に悲惨を極めたり。この時、亀山城の[太鼓櫓|たいこやぐら]および石坂門
崩壊せしが、桑名は数十の潰家ありたるに過ぎず、津・名
古屋は潰家ありたるも、桑名より軽かりしと聞く。これに
よって[観|み]れば、この時の震源地は[蓋|けだ]し四日市ならん。故に
[北勢|ほくせい]は激烈なりしも、全体よりいうときはその区域は[三河|みかわ]
より[大和|やまと]までにして、余り広汎ならざりしが如し。一説に
は[伊賀|いが]の[上野|うえの]甚しくして震源地なりという者あれども、予
の調査によれば、上野は余程軽くして大なる損害なかりし
という。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 384
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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