[未校訂]六 嘉永七年(安政元年、一八五四)の伊賀上野地震
新史料〔1〕
名賀郡神戸村常福寺栄祥筆
嘉永七甲寅六月十四日同十一月四日五日 地震録
(常福寺旧藏、三重県上野市)
嘉永七甲寅年六月大地震 伊州第一
十三日 午刻中地震、未刻大地震、其後小動四五度、山
鳴あり、此日は上野より北乾の方、地裂、塀之瓦、庇之
瓦等落候。上野より南之方は甚だ安し。
十四日 今朝夕立雲、四ッ時中動、その後山鳴あり、次
第に遠くなり。夜に入り静かなり。昨十三日夜は何方に
而も用心して戸を明けて寝たり。今晩も、上野を初北辺
は用心して居る人もあり、又心をゆるして寝し人もあり。
南辺も尚心ゆるして寝たり。
大地震、十四日夜八(午前二時)ツ時丑刻、大震動急に揺来、下より
突上る如し。如何成熟睡の者も驚怖して忽に起出、或は
藪に入り或は平地に居す。所々村々法蝶を吹、柏木を打、
喚き呼声宣(喧)し。夫より(暁カ)睦六(午前六時)ツ時迄に大動十度あまり、其
日[♠々|ドロドロ]と言う音始終不絶、如何成者も皆々燈を消し魂寒
たり……急に走り出、足のたこ尻を打痛み、漸く庭前の
苔の上に座し、地結の印結禅祈念す。智海・半右衛門続
て出来る。夫より皆々素足にて本堂の広庭に出。音に怖
れて寺之内に物を取りに入者なし。漸く古莚・古薄縁を
取来て其上に座す。村方の者追々見舞ながらに参詣に来
り、祈念願立を致し遣す。七ツ過雨少し降り、紅葉□ザシの
木の下に立寄り、夜を明かす。少々寒く旦(ママ)空腹に成、甚
だ苦し。
十五日 天気、明六ッ過ぎ大震動、本堂向拝の鳳凰首尾
動揺、垂木に当る音甚し。定而丑刻大震動之時も如此か。
其外には鳳凰少し揺ぐ斗なり。七ツ過大震動、一昼夜の
間中地震廿度斗、題々の音始終不絶あり。動する度毎に
膽を消さすといふ事なし。
上野辺の家の倒れ撃死するは、地震のゆると家の倒
るると同時にて、外へ走り出る間なし。鴨居等落て
人を撃拉、上野より北西の方の家は倒れさるも住居
ならすといふ。当山損処あまりなし(詳細は本記に
あり)
一、上野并乾方郷方荒場所
御城内北谷長屋と申御厩并手(土脱カ)廻り□□坂主長屋と申長
さ三十間斗の建物三ヶ所、東小田□北谷と申処の方は
潰れ落、東小田村領之内田地七八十間斗損し、材木、
畳類落重り、山の如し。
御城代藤堂妥女殿御住居の建物不残潰倒、尚御書院先
の山も四五十間斗東手潰れ落申候。
御城先の場所地割れ、城地に不相成、式部殿の屋敷も
城代引越ニ成といへり。
二の丸藤堂豊前殿建物不残潰倒、尚又石垣之類も落損。
二の丸地面崩落、屋敷造事不相
成、谷ノ方ノ下キ所へ取替トナリ
御天守台は無難に候へ共、
石垣の下ノ手ニ落損したる所有之。東の方大に割れ、
ゆるみ候よし。右の三ヶ所は高き所故、格別破損多し。
一、東西之大手御門石垣はいづれも千引之大石、其上多
く櫓有之、右両門の櫓潰れ、石垣崩れ落。西大手御門番
之者二人共石
ニ押□□死、
一、両大手御門内の御座敷向は、東西七八分通潰倒。西
之丸出口京橋の西詰、少し揺り下け、橋杭傾倒、西の
丸御屋敷向も七八分通り潰倒、廓の外のお屋敷向も同
様、三分通り残り有之候も大体潰れ同様、御屋敷向并
ニ寺社共練塀皆倒。
一、御屋敷向即死人五拾人餘、乗馬五疋即死。
一、丸之内牢舎之廻り、五尺ニ八尺之練塀壱丁四方ニ有
之、皆倒ニ相成、獄舎は無別条。
一、上野町方荒場所
馬苦労町 清水町 向島町 続而東町
東町酒屋四百石の酒、六尺桶顚覆して、酒皆
堀に流入、魚類多く死。
農人町 東坂町 赤坂 田端町 裏町
寺町 新町 鍛冶町 魚町 小玉町 紺
屋町 相生町 三之西町 福居町 徳居町
夷町 池町 東日南町 西日南町
右之町々、殊之外大荒、少し南手の町々は地震之揺
り方も軽故歟、自然損所も少し。
即死人百五十九人 怪我人二百八十九人
潰れ家五百八十八軒 潰れ同様の家九百二
十六軒 潰れ土蔵百六十八ヶ所 潰れ同様之
土蔵百九十一ヶ所 潰れ小屋并裏座敷七百二
十七ヶ所 同様之小屋六百三十九ヶ所
其他上野町之家々不残、半潰同様也。
一、郷方第一の荒場所 上野より弐拾町餘り北在、東
村・野間村・三田村者格別の大荒、続而西村、西山、
西小田、東小田、大之木、長田、長屋、法花、久米、
嶋ヶ原、大谷、土橋、西条、東条、坂之下、佐那具、
御代、千歳、一之宮、荒木、西明寺、友田、湯舟、玉
滝、惣而阿拝郡之内者、別段地震強烈、北乾の方山〻
崩裂たる所甚多し。道筋石橋落、地裂、溝没し、池堤
崩沈、水溢れ出、川岸裂たり、田地溝没し、高低ニ成、
川埋れて水淀み荒さる。
上野より南口方は 南江行次第に安く、但、地震ニ筋
ありて、地ニ別条あれは揺る強弱あり、一村の内も荒
れたると荒れさるとあり。郷方即死怪我人左の通り、
即死人 五百九十五人 怪我人 九百五十六
人
潰れ家 千五百八十九軒 半潰れ家 三千六
百四十三軒
即死牛 十九疋 怪我牛 六十七疋
一、上野より北乾方寺院
上野萬町西念寺 馬苦労町淨連寺 西小田
村称念寺 東小田村福寿院 長田村西蓮寺
右之五ヶ寺は、本堂不残潰倒。
一、神社
上野天神本社無事、門も無事、神楽所を始め
其外ハ大損し、愛宕社も同断、一之宮も同断、
其外小社も無事のよし。
一、十四日の夜、大地震最中、上野馬苦労町風呂屋より
出火、七軒焼失。
一、上野町より十二三町北の手に当り、服部村と三田村
と川之落合下、横幅広さ五六丁程、長さ十一二丁程、
川水淀相成。
七月十六日、
昼前蒸強天気、九ッ頃より服部川原大風雨。
(前略)
大福寺導師、常福寺……別壇ニテ過去帳を読。横死
者五百九十五人之戒名を三座に分けて読……。
真言宗十七ヶ寺集合、
大福寺 常福寺 名張神宮寺 法花長楽寺 菊
生院 長屋多聞寺 大田蔵之坊 長田仏性寺 荒
木最性寺 貴高高尾寺 島ケ原慈眼院 西村徳楽
寺 上野萬福寺 善福寺 密乗院 威徳院 愛
染院 外ニ比曽河内長楽寺
外ニ伴僧十人、下部十七人、大福寺ハ供
廻り有之候、
右相揃、上行寺ニ集合、服部川ニ四ッ時出仕、「真言宗」
と標札を打たる仮屋ニ着、皆傘をさして立てり。風吹い
て法事の仮屋(廿四間四方のかや)見る〳〵一時に倒る。
参詣のもの押撃たる。皆役人の指図で散ず。衣も傘も打
破れたり……萬福寺へかへる事勝手引取になりて、八ッ
過ゟ引きとる。
此度作事方役人之仕方甚不善、役人詰所ハ柱を丈夫にい
たし、外ハ皆竹柱、屋根は麦わら極薄、茨葺も只一重、
法事の仮屋も同様之処、雨を浚がんため莚をかけて重く
なる。風雨なくても倒れんとする斗の処、風多故忽ニ倒
る。
法事の最中にかゝる怪事ありなば、いか斗の恥辱ならん。
実に今日の風雨は一通りならざる、横死のものの霊怪か、
役人の心得方悪敷故、神の御憎(憤カ)り、天狗等の磨(魔)障か、皈
路男女驚怖して魂を消す。上野は恐ろしきことと人々さ
さめきあへり。
ヶ程の大事に日を撰ばず、然も両日ともに大悪日に、当
日役人は勿論、法事を司る上行寺、山渓寺などは世暦だ
に知らざるか、……ヶ程の横死を吊施餓鬼なれば、然と
も行て回向するは出家の当然なれば、布施には及ばずと
いへども、未刻に成ても食を送らず、終に出家の腹をほ
したる罰甚莫大也。
同十八日
服部川原の施餓鬼の再行につき協議す。
法事司取は 上行寺 山渓寺
導師 法花上行寺 禅宗山渓寺 天台西蓮寺 真
言大福寺 浄土念仏寺 一向正崇寺
同二十日 天気 (概略)
上行寺にて五つ過打揃、それより川原江行く。此度は、先
日の六角の仮屋をたけひきて六方へ建たり、四ッ前より法
事を始め、七ッ頃相済み、一列ニテ萬福寺へまいる。自他
宗合せて凡弐百人余の僧侶也。
天気にて群集多し。
十月朔日
米八斗ニテ 六十三四匁計り。
同七日
地震で伊賀一国地面損断 六尺四方一坪ニテ一萬坪計り、
此中如元田地に成有不成有り云云。
此外往来路山々損断ハ別也。
十一月四日
辰(午前九時)半刻、大地震。
同五日(常ニ戸外にて寝たる由あり。)全国的に損所あり。
申(午前五時)下刻、大地震。
奥書ニ曰ク
去寅六月十三日至、今日凡十三ヶ月之間、記地震之大
小、数多少ニ云々
安政二乙卯林鐘十六日 常福寺老比丘栄祥
(この史料は、常福寺の所蔵であるが、原本を見ること
のできない事情にあり、上野市に在住された故岡田栄吉
氏が筆写した本より印行した。『古地震』参考史料に収
めた同日の記述との差異に注目されたい。)
新史料〔2〕
諸事記録控書 (八嶋神社史料、奈良市内侍原町)
嘉永七寅年六月十四日夜大地震、当地前代未聞之事ニ御座
候、死人怪我人者夥敷、夫より日〻盆後迠も続キ、同年十
一月五日又候大地震ニ而、日日大坂津浪ニ而、是又死人沢
山ニ御座候、其外諸国共ニ地震ニ御座候、其内、六月之節
者伊賀上野邊格別大地震、南都者弐番外ニハ格別之事も無
御座候、春日社六月太〻御神樂も延引相成、八月ニ奉捧候、
新史料〔3〕
*御用万記 (大和秤座和田家旧蔵、奈良市元興寺町)
大地震
嘉永七寅年六月十三日、昼時分、少〻相震始、又同日八ツ
比ニ少〻相震、修、
翌日十四日、夜八ツ時比ゟ大地震ニ而、市中大半相崩、
新史料 〔4〕
*青井神社巨細取調書 (青井神社史料、奈良市横井町)
一、御鎮座年月相分不申、天長元甲辰年正月初テ御社造営、
其後度々修補有之候得共年月相分不申、安政元寅年六月地
震ニテ顚倒ス、同二卯年二月再建、
(後略)
新史料 〔5〕
*差図書 (青井神社史料、奈良市横井町)
奥(ママ)福寺下
添上郡横井村
役人
当村領字登リ坂ニ在之、
瘡神社 梁行壱間半
絵圖有略之、 桁行壱間半
屋祢瓦
絵様無御座♥、
籠リ所 梁行弐間
同断 桁行三間
屋祢瓦
絵様無御座♥、
右者、去寅年六月地震ニ而相倒れ♥間、
此度古木ニ新木取交、如元再建ニ御座♥、
右之通相違無御座♥、以上
横井村
庄屋
杢右衛門 印
安政二卯年二月二日 年寄
千十郎 印
御番所様