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項目 内容
ID J2500263
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1847/05/08
和暦 弘化四年三月二十四日
綱文 弘化四年三月二十四日(一八四七・五・八)〔北信・上越〕
書名 〔歴史と現代〕河内八郎著
本文
[未校訂]一九八八・一二・一〇 七五一号
5 生きている川を知る
大倉崎に残る古文書
今も善光寺地震でできた島
 大倉崎区の書類の中に、一通の重要な文書がある。六十
一年(一九八六)八月の講座でも、実物をお見せして紹介
した。おもしろいのは、文章の前に千曲川の河道の絵があ
り、大関の渡し場のすぐ下流の部分に二枚の図を重ねて、
川に北岸から岩石がたくさん流れ込んで、流れが妨げられ
ている様子がよくわかるようになっている。
 嘉永七年(安政元年・一八五四)十月、関沢・大倉崎・
上野の三か村でとりかわした「一札」の内容を紹介してみ
よう。それは、誰でも知っているアメリカ使節ペリーが浦
賀に来航した年の翌年、再来日によって神奈川で開国の
「和親条約」が結ばれた年である。
 弘化四年(一八四七)三月二十四日の善光寺地震は北信
一帯に大きな被害をもたらした。さらに山崩れでせき止め
られた犀川上流から一挙に流れた大水で、四月十五日から
飯山城下の周辺が大洪水に見舞われたことも、多くの記録
で知られている通りである。
 その地震のとき、小菅村の字大杉(大菅)の堤(溜池)
が関沢村の短平巻(たんぺいまき)上の千曲川へ押し出し、
土石が川の中に崩れ落ち、川幅の三分の二を埋めるくらい
の島ができた。その後、ばく大な量の石を除き、川の流れ
も土石を運び去ったので、川幅はかなり回復されたが、関
沢村寄りに、うっすらと島のようになって残っている。そ
のために川の流れが悪く、古くからの田地が水入りの被害
を受けやすくなっている、という。
 代官所へ検分を願い出たが、「関沢と大倉崎の両村で精々
石除けにはげみ、川通りをよくせよ」ということであった
ので、この両村は、上野の名主を証人に立てて、今後とも
この島地が大きくなって、耕地に支障にならないように心
がけ、もし土石が溜ってきたら、両村で相談してその取り
払いに努めること、その費用は両村それぞれの内で話し合っ
て出す、ということを、双方納得の上で「一札」として取
り交わしたのである。
 「川は生きている」というのは、こうした別の災害を受
けて、その流れが妨げられるような場合もあることである。
現在の大関橋のやゝ下流、上野の掲水機場の向かい側あた
りは、「そういわれれば川の中に島がある」と、土地の人
も言う。こうした障害物は、洪水の要因になるであろう。
強いと確信をする堤防を造る一方で、こうした川の姿を絶
えず見つめ、流れの深さ、広さ、両岸の狭さく部の状態等
に正しく対処していくことが必要となろう。
 百五十年前の文書は、川の絵の中に大石小石のごろごろ
する状況をみごとに描いて残しているが、水害が単に雨の
降った量だけによるものでないことを、きわめて身近かに、
私たちに教えてくれている。
 下流の各地から始めて、「生きている」千曲の姿をこう
した歴史的な記録で確認しながら、正しく知っていくこと
が、水入りになって「何百年来の予測できない、まれな!」
などという言いのがれを批判できることになるのではなか
ろうか。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 328
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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