[未校訂]弘化地震
弘化四(一八四七)年三月二十四日夜に発生、北信濃か
ら上越後方面にかけて大被害をもたらした震災である。真
光寺村の記録によると「夜五ツ半(午後九時)頃と思ひ候
時、北之方(南之方よりとする記録もある)より、大地震
よろき[来|きた]り」とある。なお発生時刻については、長走村の
記録では「亥の刻(午後十時)」とあり、ほかの記録も
「亥の刻」、又は「四ツ時」(これも午後十時)とするもの
が多いから、時刻は、午後十時ごろが正確と思われる。突
発的な災害で動転しているときの記録だから、時刻や震動
の方位などが不正確なのは当然であっただろう。
いずれにしろ、灯火を惜しんだ当時の人々は、既に大部
分が寝についていたことと思われる。突然の地震に驚いた
真光寺村の人々は一斉に戸外へとび出し、騒然となった。
大地は鳴動し、建物は揺れ・きしみ・壁土が崩れ落ちた。
それでも、幾分、気を取り戻した人々は、牛馬を戸外へ引
き出し、竹原へ集めて繋いだ。その夜中、小さな震動が続
き、特に子の刻(十二時)ごろには、激しい余震があった。
夜中のことなので、全体的な被害状況は不明のまま、人々
は一晩中、戸外に立ちつくし、朝を迎えたという。
翌二十五日も一日中余震が続いた。一夜明けて村内を見
回ったところ、真光寺村四〇軒のうち建物の被害は次のと
おりで、耕地等の被害はまだ不明である。
○家屋全壊 なし
○家屋大破 六軒 高(屋号カ)見長右衛門、下屋敷松右衛門、橋
場儀左衛門、あっち粂八、下屋敷又
次右衛門、同次郎左衛門 (次郎左
衛門は二階座敷が抜け落ちる)
○怪我人 一人 次郎左衛門
○屋敷に亀裂 直右衛門家、巾三寸、長さ五間
○小破 残り家全部
これにより、真光寺村は役所へ次のように届け出ている。
乍恐以書付御届奉申上候
昨廿四日夜、大地震にて、家数四十軒一統相損、乍併
住居難相成儀も無之、人馬一切怪我無之候、御高札、郷
蔵等無難に御座候、扨又、当年不順気にて、苗蒔入も遅
く相成候処、地震、泥等押出し、此末如何様ニ成行候も
無心許、御損地場所、其外耕地之内欠崩、変地仕、此儀
は追て見究之上御届奉申上候(後略)
真光寺村(休番庄屋)直右衛門は、翌二十五日、近村・
知る[辺|べ]へ見舞いに回った。そのときの見聞による各地の被
害状況を次のように書き留めている。
横住村
○全壊 一軒 ほとろ場清兵衛
○半壊 二軒 治右衛門・正てん久八
○大破 四軒 稲場岩右衛門・梨の木惣左衛門・同利左
衛門・隠居八郎兵衛
○土蔵大破三棟 嶋斧右衛門・十二林市右衛門・脇清七
○小破 村中不残
谷村
○小破 一軒 堂林善左衛門、その他さしたる被害なし
平山村 むかう半左衛門・西重左衛門、その他全壊、半
壊多し 山方の村では最大の被害
今保・田島・三村・井ノ口の各村
右の各村、全壊半壊多数、領勝寺、本善寺、定光寺、
運行寺等の各寺院半壊
中村
酒屋九郎右衛門の酒蔵潰れ、酒皆こぼれる。他全壊、
破損多し
野村 潰家、破損家多数
野田村 少々損失
川浦村
元兵衛・伊左衛門家全壊、その他大破多数、御陣屋少々
痛
高田町
さほどのことなし、中屋敷町二・三軒潰、御家中十軒
程潰
長走村にも同様の記録が残っている。人々は、小止みな
く続く余震におののきながら、全村寝ずで、「火之元等心
付」たと記されている。翌朝になって、確認したところで
は、長走村の被害は、家数二〇軒のところ
全壊 二軒 助治右衛門・市郎兵衛
半壊 一軒 嘉右衛門
大破 九軒 八左衛門・藤七・吉郎右衛門・市郎右衛
門・忠右衛門・八十右衛門・治郎右衛門・
与右衛門・甚蔵・惣左衛門
寺堂二か所 光林寺・観音堂大破
高札場 欠崩
なお、田地等の被害はまだ分からない。長走村庄屋方でも
早速、このことを川浦役所へ報告し、一方、横川・菱田・顕
聖寺等、近村を見舞い、二十六日には、国田・梶・長峰・吹
上・坂井等、下美守郷方面の親せきへ見舞いに赴いている。
ところで、災害の翌日には、長走村でも真光寺村でも全
村、一斉に小屋掛けをした。真光寺村では「翌日、村中小
屋掛けいたし、是にて飯をたき、其中にて喰物いたし、寝
泊り」したと記し、長走村も「小屋掛けにて罷在り、家内
にては、火など一向焼不申」と記している。
また別の記録では、顕聖寺村庄屋石田源左衛門も、小屋
掛けの中に起居し、ここで、見分の役人などを応接したと
記されている。これらから見ると、住宅に居住できるでき
ないにかかわらず、当分、地震が治まるまでは、小屋掛け
の中に起居したもののようである。余震に備え、二次災害
の火災を防ぐための習わしであったようである。
なお、三月二十九日、午の刻(午前十二時)ごろ、最大
級の余震があった。これにより、新たな被害が発生した模
様で、長走村の記録では「此度は高田、今町、大瀁辺、格
別相損、潰家等数多出来申候」と記している。このほかの
余震については、七月十九日夜七ツ時中震、八月七日昼八
ツ時中震、八月九日小震、十月十五日昼九ツ時小震があっ
たとされている。
役人の見分と民間の救恤
小笠原信助川浦役所では、手代の中川
直三郎・中川定五郎と中川要吉・石川丹
蔵の二組を四月四日から浦川原方面の被災状況見分に派遣
した。また、四月五日付で次のような通達を出している。
此度、大地震ニ付、居宅を放れ、野辺ニ小屋掛いたし
居、[〆|しま]り無之故に、悪党共付込、中には多人数党を結
ひ、抜刃を携、押歩行候趣相聞候間、為取締出役差出
候、右体之者は勿論、[怪敷風体|あやしきふうてい]之者徘徊いたし候ハヽ、
村内不及申、隣村申合、差押へ、御役所へ可差出候、
[若|もし]、無宿、悪党共、刃物を持、手むかい致候ハヽ、何
様手強ニ致、♠付又は無余義打殺候共、[跡|あと]にて村々不
及難儀様取計可遣間、厳重ニ追詰、差押可申候(後略)
災害後の不安定な治安状況がよく表れている。また、こ
のとき、顕聖寺村庄屋、石田源左衛門から、次の村へ救急
の金穀が施されるから、四月十一日に石田家へ請取りに罷
り出るようにとの通達があった。村とその高は次のとおり
である。
・釜渕村 籾八俵 ・熊沢村 籾一三俵 ・長走村
米一俵、籾七俵、金三分二朱 ・岩室村籾一三俵 ・
有嶋村 米三俵、籾一四俵 ・菱田村 米一俵、籾八
俵 ・桜嶋村 米一俵、籾七俵 ・山本村 籾一二俵、
金一両二分〆米六俵、籾八八俵、金二両一分二朱
石田家の、右の救援は緊急の手当のためのもので、近村
に限られているが、石田家ではこれとは別に、後日、頸城
郡内へ多額な義援金を出している。右の金穀の高は、それ
ぞれの村の被害状況や村内の救済者の有無等に対応したも
のとみられるが、これ以上のことは分からない。なお、四
月十二日、再び川浦役所から役人二人が出張してきて村村
を再度見分の上、顕聖寺村石田家の仮小屋を事務所として、
被災者へ救援金を配分した。
この救援金は、蒲原郡水原村の豪商、市嶋徳治郎ほか八
人と頸城郡の石田源左衛門ほか一七人が差し出したもので
ある。蒲原郡水原村の民間人が頸城郡へ救援したのは、川
浦代官小笠原信助が水原代官を兼務していた縁によるもの
であった。その金高並びに頸城郡川浦役所管内の出金者は
次のとおりである。
○市嶋徳治郎他八人 八百三十五両
○顕聖寺村石田源左衛門 四百両
○浦田口村与惣治 百三十両
○東浦田村彦太夫 七十両
○仁上村治郎右衛門 五十両
○行野村又右衛門 五十両
○大嶋村弥曽右衛門 五十両
○飯室村九十郎 五十両
○戸(釼村兼帯庄屋)野目村武助 五十両
○北(野村兼帯庄屋)方村善兵衛 三十両
○神田村仙八 三十両
○釜渕村久太夫 二十両
○錦村 孫治右衛門 二十両
○三村新田 五左衛門 十両
○井ノ口村 猪之丞 十両
○神田村 兵右衛門 十両
○法定寺村 吉太郎 十両
○安塚村 平右衛門 十両
合計 千両
弘化地震の当地の被害状況の詳細は、今のところ、この
程度しか分からない。しかし、少なくとも、多数の死傷者
が出るとか、一村の大半の家屋が倒壊するというような大
惨事には至らなかった模様である。この震災の中心地は、
前記のように北信地方だった。折から信濃善光寺は秘仏の
御開帳中だったために、諸国から参詣者が蝟集していた。
この参詣者が災害に巻き込まれた。松之山郷の出稼ぎ者が
帰郷の途次、善光寺へ立ち寄って被災し、命を落とすとい
う悲惨な事例が二、三件ある。当地の人々の中に、このよ
うな不幸に遭遇した人がいなかったかどうか。史料が不足
のため分からない。真光寺村の書留によると、川浦代官所
管内の被害状況は次のとおりである。
○皆潰 三〇〇軒ほど
○半壊 一〇六〇軒ほど
○大破 三一五、六軒ほど
○怪我人 九〇人ほど
○死人 一七、八人ほど