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項目 内容
ID J2500014
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1703/12/31
和暦 元禄十六年十一月二十三日
綱文 元禄十六年十一月二十三日(一七〇三・一二・三一)〔南関東〕
書名 〔成東町史「通史編」〕成東町史編集委員会編S61・3・30 成東町発行
本文
[未校訂]第三章 近世
2 成東地方の津波塚
(1) 松ケ谷の千人塚
成東町松ケ谷の南方、篠笹と樹木に囲まれた共同墓地の
中に、一体の地蔵尊があって、俗に「千人塚」とよばれて
いる。元禄大津波の七回忌にあたる宝永六年(一七〇九)
に造立されたもので、高さ三尺許りの地蔵尊の台座には、
前述のごとく松ケ谷村惣念仏講中によって、追善供養の法
会が営まれた旨の銘文が記されている。多くの津波塚は伝
承のみであるが、この千人塚の場合、造立の由来を記した
古文書が残されている。
『見聞雑誌』によれば「爰ニ其昔元禄十六年関東大地震、
同年十一月廿三日ノ夜九十九里大津波、其頃則栗山川ト木
戸川一ツニテ其川シモ宿之下ニ至ル、津波ノ為川中へ波ニ
打込レ死亡人川下へ漂着ス、現今宿之下地蔵堂此所へ無縁
ノ死亡人埋ムル、四百人ト云フ、百人ト云フ、八十四人ト
云フカ実ナルカ、供養ノ為今有地蔵尊ヲ安座スルナリト云
フ、其供養ノタメ七月廿三日大セカキト云フテ今ニ施行ス
ト云々」と記されている。これらの記録によると、当時、
松ケ谷村の周辺は海岸に沿って南流する栗山川と東流する
木戸川とが合流し、宿之下付近で大きく南に蛇行して海に
注ぐ河口となっていたものと推測される。そのために、津
波が去った後、夥しい死骸が漂着、その数は四〇〇人とも
一〇〇人とも、あるいは八四人とも伝えられる。これらの
人々は、松ケ谷村の芝地に無縁仏として葬られ、七回忌の
供養に地蔵尊が造立されて、その後、毎年七月二十三日に
「大施餓鬼」の法会が催されたといわれる。(中略)
(2) 本須賀の百人塚
すでに紹介したが、松ケ谷の千人塚から西方一・五キロ
メートル、成東町本須賀の畑中に一基の五輪塔がある。こ
れも元禄大津波の犠牲者を葬ったもので、古来、土地の人々
は「百人塚」と呼んで、現在でも香華をそなえ仏果菩提が
弔われている。『百人塚由来記』によれば、当時の状況を
次のように記録している。
元禄十六癸未年、十一月廿二日ノ夜、晴天ニシテ雲無、
三更ノ比ニ大地ノ頻ニ震動シテ、諸人天地モ倒ルカト
思へリ、故家ノ忽チ破レ、山ハ崩レテ、池ハ平地ト成
ル、衆人大ヒニ周章ス、迯去ラント欲スレドモ遁レル
足ヲ留メルベキ地無シ、爰ニ災難尚ヲ難ヲ累ヌ、海瀕
ノ庶子等、海水ノ動波津ニ揚ルトハ努(夢カ)思ハズ、処々ニ
群集リテ唯地震ヲ歎ク耳、夜鶏鳴ク平旦ノ比、直ニ揚
ル㕝箭勢自リ速シ(中略)磯辺ニ[艫|とも]ヲ並ベル漁船、浦
辺ニ棟ヲ列ス漁師等、件ノ津波ニ打被破、落花微塵ト
成リテ畢、之ニ依リテ、死人田畑堀江ニ満チ、畦畝ニ
枕ヲ並ベル、時ニ及デ運命強キ者、漸ク命ヲ全ス、九
十九里ノ溺死者都テ幾千万カ知レズ、当浦ノ溺死者九
拾六人、終ニ是ヲ墓所ニ葬リテ、百人塚ト名ス云々。
出典 新収日本地震史料 続補遺 別巻
ページ 7
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 千葉
市区町村 成東【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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