[未校訂](至享文記)
一同(寛延)四年未四月廿五日夜、信濃・越後之境なる妙義山と
いふ山有。比山両方へ破れ土砂吹出ス事夥敷。此処ハ
榊原小平太様御領分拾五万石、家数六千軒計有之、地
内弐千軒程焼失致候。御城大破及ひ、家中半分ゆり崩
ス。百姓・町人三百余人死ス。十一日之間地震止ス。
然ルに今町といふ所ハ、津波にて町半分ハ波に引るゝ。
残る半分ハ土砂ニ埋る。海中三里之余、沖迄潟と成。
人数弐百余人、牛馬百拾三疋死ス。去ル午之年紅の雪
降る。是仏神之告とも申あへり。夫より一里下にてか
しちの宿あり、此処ハ大仏あり。高サ廿五間、本堂大
地半分埋る。是より山道十二里行と京井川、此間ニ四
海峠と云、山海中へ三里程突出ス。今町ゟ三里下ニて
鉢崎と云所有、此処を亀割坂と云。昔源義経の御台御
名ハ桂之前と申。此処ハ関所なり、鉢崎山破、海中へ
突出ス。此処より白蛇顕れて上天する。震動雷電ス。
是ゟ柏崎、此町千軒余津波にて人多く死ス。此亀割に
て桂の前御紐とき給ひし産湯之水有。是より出雲崎へ
六里塩浜なり。此塩浜之人家とも見へず、比処ゟ佐渡
ケ島見へる。海上十八里、是より三里下寺泊りといふ
宿有、千軒余ケ処家皆土砂ニ埋るゝ。人馬とも山へ逃
込、山ニ住居して居るよし。是より八里程行と越後新
潟也。此処かうち法印之古跡有。諸国入込し大湊也。
此処大船・小船五拾三艘行方不知、唐人之商船吹寄、
凡死ス。廿万人之余と申事、誠ニ筆紙ニ難尽候。
右之通、越後ゟ申来候を写。
一寛延四年未五月、和泉の国之けい山、四丁ニ弐丁之山
大ニしつむ。立木とも□□に見ゆる也。