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項目 内容
ID J2401459
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1751/05/20
和暦 寛延四年四月二十五日
綱文 宝暦元年四月二十五日(一七五一・五・二〇)〔高田・越後西部〕
書名 〔柏崎文庫 3〕関甲子次郎著
本文
[未校訂]越後名立崩れ
▲名立崩れとて村の後山崩れ落ち旧名立村一村共山下
となり今の名立は新名立なり其時加賀藩の三度飛脚能
生權現の夢告ニよりて此災厄を免れたりとて同藩より
權現へ燈篭を寄進せり
▲守田寶丹老人の身體保全法ハ「明和の頃(これは誤
記)京都佛光寺宮の家臣小幡某我れと我との脈を診す
る事を覚え種々の病災を前知せり或時佛光寺宝物を各
地へ開帳し越後国名立村ニ投宿せり臥床に於て脈を診
すれば死脈を呈せし故に大ニ驚き従僕其外数十の人夫
旅舎の人々を診するに皆死脈なれば急ぎ宝物を取纒め
平脈に復する所迠退きしに百千の大雷一時ニ落るか如
き響あり時ニ名立の方位を望めば天赤き事火の如し翌
日きけば名立の後山二つニ裂けて家屋人畜悉く海底に
沈没せりと宝物と自身及び人夫と共に此大変を免れた
るは全く脈を診して災を前知せしに因てなり
(中略)
四月廿五日より数度地震高田領尤も甚し翌年正月二日迠
微震つゞく榊原侯より幕府へ詳細の届を出す九月幕府よ
り七人の役人来り頸城各地の道路の破を修築し十月廿七
日出来上り□高田出發帰府す、死亡一万六千三百餘

▲四月廿五日夜八ツ時半此の方より大地震柏崎町内何
れも壁落ち石礎柱三四寸位めり込む井戸下よりゆりあ
げ残らずいたむ永徳寺門前家潰れ六(カ)平女房死す中町往
来の井戸崩れる四ツ屋ニて家潰れ人死す廿六日四ツ時
八ツ時度々町中残らず小屋をかけて入る宮川の寺庫裏
共潰れ山口新田土手二百間西の方崩れ鉢崎は番所の上
へ二百間崩れる馬足通行停止す
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 246
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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