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項目 内容
ID J2401239
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1741/08/28
和暦 寛保元年七月十八日
綱文 寛保元年七月十八日(一七四一・八・二八)〔津軽・江差〕
書名 〔熊石町史〕○熊石町S62・9・30 熊石町
本文
[未校訂]第十節 寛保元年の大津波
 寛保元(一七四一)年七月十六日、松前町から南西六
十キロメートルの日本海上にある火山島松前大島が突然噴火
した。その状況は〝福山秘府〟によれば「西部大島発火
震動如大山之崩、亦雨白灰黒砂積地上深者数寸」とある。
ちょうどこの日は旧盆引の日で、各村々では住民達は盆
踊に夢中であったというが、恐怖のあまり村民は家に帰
り、神、仏に灯を上げて、ひたすらこの島の爆発の鎮ま
るのを念じていたという。
 ところが七月十九日朝明六ツ時(午前六時)突然津浪
が起き、東は松前弁天島から西は熊石村にいたる約百三
十キロメートル間の海岸に大津波が襲来した。この被害の状
況について松前領主松前志摩守邦廣から徳川幕府に対し
次の報告がなされた。
上覚
松前志摩守領分従松前東西在々七月十九日未明、津浪
打入民家夥鋪流失溺死之者多御座候由、尤船抔松前近
辺不残流失破船等多御座候段申越候、委細之義者追而
可申上旨申越候、先右之趣御届申上候。
以上
八月廿日
松前志摩守内
 河合九郎兵衛
(〝松前年々記〟)
 松前からの報告は一か月かかって江戸に達し、松前藩
邸留守居役河合九郎兵衛から取りあえず口上書を以て報
告をした。その後九月十日に到って藩から詳細な報告が
届き、次の報告書を月番老中松平伊豆守信祝に対して提
出した。
 当月十九日明六ツ時前私領内三十里之間津浪打候而
浜辺住居之者共溺死并流家左之通御座候。
千二百三十六人溺死、内男八百二十六人、女四百十人
外ニ他国者僧俗共二百三十一人溺死、七百二十九軒流
家、三十三軒潰家、四軒流蔵、二十五軒潰蔵
此節破船仕候舟数大小千五百二十一艘、右之内猟船千
三百二十九艘破船仕候、此段御届申上候 以上
七月
松前 志摩守
というもので、溺死者は総数千四百六十七人、流失倒壊
家屋七百九十一戸、漁船の遭難は千五百二十一艘に達す
る未曾有の大被害を受けたことが記録されている。幕府
もこの被害を聴いて老中松平左近将監が心配し、さらに
詳細に被害を報告するよう指示をしている。
 この津浪について熊石村ではどのような被害を受けた
のであろう。浄土宗法蔵寺の記録によれば、
寛保元年七月十九日九ツ半時(十二時半)頃大津浪堂
舎不残流ス、留守居海心房死僕喜八溺死諸書書物流失
ス、本尊菩薩半鐘双盤平田内川上ニテ見出ス
とあって堂宇も流失し、留守僧及び従僕も死亡する程の
惨害であった。この流失した半鐘は今も寺宝として説明
を付して保存されている。また、同寺過去帳によれば
寛保元年酉七月十九日
栄水信士勘右衛門弟
浄泉童子同右
請覚信士弥右衛門妻弟也
圓水信士藤左衛門
浄廓自念和田屋仁兵衛
三誉光心飯田屋七太郎母(ビンノ間)
檀林双鶴飯田久助(ホロメ)
它心了運勘右衛門兄
妙心信女松右衛門内(ホロメ)
と九人の死者のあったことが記録されている。また、相
沼無量寺の過去帳によれば、この七月十九日の死者は、
男三十二人、女四十人、子供三十八人計百十人の死者が
出たことが記録されている。この記録は三ツ谷村から熊
石村までの死者であるが、死者の最も多いのは蚊柱村
(現在の乙部町字豊浜)である。この無量寺檀下での過
去帳から推定される死亡者は、年平均約十人であるので、
十倍位の死者が出たことになり、その村によっては三分
の一程度の住民が死亡した村もあることが考えられる。
 〝熊石村沿革史〟によれば、この大島の噴火と津浪に
よって「全村殆ど全滅の危に遭い惨状を極め本村の発展
が中断せられたが、延享元(一七四四)年佐野権次郎江
差より転住してより漸次発達した。」とされている。し
かし実態としては全村民が死亡したのではなく、この津
浪により村が疲弊していたのを、江差からの移住者佐野
権次郎らの努力も大きく貢献して、村が立直ることがで
きたと解すべきものと考えるのが、正しいと思われる。
 今も町民の古老達のなかには祖先からの言い伝えとし
て津浪の恐ろしさを伝えているものもあるが、松前町で
は津浪直後、寛保元年八月光善寺住職が各宗寺院に図っ
て、無縁の死亡者を葬り、それに大石塔婆を建て盛大な
大施餓鬼を厳修したといわれ、さらに、その場所に無縁
堂を建立し、現在に到っている。江差町にもこの津浪犠
牲者の碑が正覚院、法崋寺、阿弥陀寺、金剛寺の四か所
に建立された。熊石町では法蔵寺前に南無阿弥陀佛と彫
られた石碑が建っているが、これは大島噴火と津浪の際
の犠牲者供養碑であって、昔からその命日には供養が続
けられて来ている、といわれている。また無量寺にもこ
の供養のために建立された地蔵菩薩が保存されている。
浄土宗 西光山 法蔵寺
熊石町字根崎
 元禄三(一六九〇)年三月十四日勢蓮社至誉上人真雄
和尚勢至菩薩を奉持して来つて草庵を結び、浄土宗を弘
通して勢至堂と通称された。また、宝永六(一七〇九)
年江差阿弥陀堂住職藩に願い出、その堂地を与えられて
熊石庵と称した。
 寛保元(一七四一)年七月十九日の離島大島噴火によ
る津浪の直撃を受け、堂舎総て流失し、留守居僧海心坊
及び老僕喜八は溺死し、半鐘及び双盤が平田内川源流付
近で発見されたといわれている。
出典 新収日本地震史料 続補遺
ページ 216
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 北海道
市区町村 熊石【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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