[未校訂]同元年七月十六日西方日本海中に聳えている大島が爆発
し、十九日に津波が押し寄せ西在の和人地熊石まで壊滅
的な大打撃をうけた。「福山秘府年暦部」につぎのよう
に載っている。
○秋七月十六日西部大島発火。震動如大山之崩、
亦雨白灰、黒砂積地上。深者数寸。
○同月十九日寅下、雨降海洋為響須叟。至明旦、
海水大溢、海辺都成海。其里程凡三十有余里。溺
死者一千四百六十七人。家蔵破壊者七百九十一戸。
大小船破者一千五百二十一隻。夷方溺死者及家蔵小
船破者不載于此。至秋八月二十日、演白
之于江戸。
○冬十二月十六日、天陰炭降。平地積三寸余。天晴而
地皆為黒色雪。
「西の大島が爆発した。その震動は大山の崩れるよう
な大音響で、白灰を降らし黒砂が地上に深さ五、六寸積っ
た。十九日の午前四時過ぎに雨が降り出し、しばらく海
鳴りがしていた。
朝になると海水が高まり押し寄せ海辺は海中となって
しまった。その区域は三〇余里。おぼれ死ぬ者千四百六
十七人。家屋のこわれたもの七九一戸。こわされた大小
の船千五百二一隻であった。アイヌの死者やそのこわさ
れた家や小船の数はここに記してない。この報知が八月
二十日江戸の幕府に達した。十二月十六日また天曇り炭
が降った。平地で三寸余積り空晴れてみると地上はみな
黒い雪であった。」
アイヌたちについての調査が載っていないが相当のも
のであったと推察される。
当時の戸口は明らかでないが、二四年前の享保年の
「御巡検使御下向申合覚」の総人口は一五、五三〇人で
あり、三年前の元文三年は一八、九八六人で約二十年間
で二割強の増加であるから、仮りに西在の人口を享保年
の二割増とすれば、八千三~四百人となり、そのうち千
四百余人の生霊を失ったことになる。一家族が平均五人
ぐらいであったから、戸数も千六百戸ほどあったことに
なるので、その半分がこわされ、舟は全滅に近かったも
のと思われる。
「松前史談会報」によると、「七月十五日の夜、蛭子
神社の境内に集まっていた若者たちは、大島の噴火を見
て何事が起ったのかと不思議がっていた。それが二晩も
続き事のなりゆきに慣れると『大島ピッカリおやじガッ
カリ』と元気にうたう者もでてきた。そのうち大島の光
が急に大きくなったので騒ぎをやめ、ぞろぞろと月明り
に光る大島をみていると、頭上に降りかかる灰に気がつ
き、『おい、灰が降ってきたぞ』とどなりながら皆急い
で家に帰ってしまった。三日目の十九日午後四時ごろ、
にわかに海鳴りがして大[濤|なみ]が襲ってきた。またたく間に
家を流し人を[浚|さら]い、そのうえ、千人力の大石までも海か
ら無数にうち上げられ、村の風景は見るも無惨なものに
なった。その後道念坊とかいうお寺も、二越の村も流さ
れ、生存者はみんな原口に引越してしまった。この時村
の大半の人たちは下海岸に昆布採りに出稼ぎにいってい
た。下町の中央にあった八幡様の鳥居が額と一緒に戸井
村へ流されてきた。これを見た江良の出稼人たちは何か
変事があったに違いないと、大急ぎで帰村すると家も村
もない。いつも船をつける所に大石があったり、家が砂
山になっていたりして惨たんたるものであった。……現
在泉竜院には供養の地蔵尊七体が建立されている。泉(ママ)竜
院の過去帳には一二八人の名が記載されており……」
と当時の古老の懐古談が記されている。
江差では港に[碇泊|ていはく]していた船の[碇|いかり]がこの津波で小高い
街に打ち上げられたと伝えられ、のちこの町を[碇|いかり]町と名
づけたといわれ(今の陣屋町)ながく一町名となってい
た。熊石では法蔵寺の凡鐘が裏の高台に打ち上げられて
いたと伝えられている。地形上波うちぎわ近くに家を建
てねばならなかった熊石・泊川・相沼など、言語に絶す
る惨状を呈したことであろう。
乙部でも高処に居住していた人たちは助かり、のち小
川の奥に入り炭焼に専念したという。乙部では無縁の溺
死者の霊を慰めるため林庄左衛門が[釈迦堂|しゃかどう]を建て、江差
にも供養塔が建てられ、それが正覚院や法華寺に現存し
ているし松前の立石野にも建てられたのであった。
菅江真澄が寛政年に西海岸巡遊のおり乙部でみた裏話
を「えみしのさえぎ」に著わしているが、現代語訳「菅
江真澄遊覧記」によって当時を偲んでみよう。
漁師の家の軒近くに、新しい石碑を背負ってきて据
えたのを、八十歳あまりの女が杖を投げ捨て、目もよ
く見えないのか、この石を左右の手でさぐりながら、
「ああ、はかない、ああ、かなしい」と声もとぎれに
おいおいと泣いていた。「どのような人の事績をこの
ような碑にしたのだろうか」と言うと、目をさすりな
がら答えてくれた。「五十年のむかし、ころは七月の
中旬、灰がいちめんにふってきて四方八方の空もくら
くなり、昼さえ燈火をともして、みの笠で行き来する
状態になりました。どういうわけだろうと思っている
とき、誰が言うともなく、あと五日たつと津波が寄せ
てくるだろう。ああ恐ろしい」と口ではいうものの、
ただ根も葉もない流言とのみみな思っていました。こ
うして十九日の夜、夕ぐれから[盆|ぼん]おどりに人々はさざ
めきあい、[暁月夜|あかつきよ]がたいそう涼しい海に照るころまで
浮かれ歩いているとき、大きなもの音がしました。こ
れは地震だと思ううちに、寝ていた人もみな騒ぎだし、
外にでる間もなく高波がさっとうちあげてきました。
さあ津波だと、足もそらにして逃げだし、泣きまよい
ながら、山にのぼり岡にかけあがるほどもなく、夜は
明けがたになりました。住んでいた家はすっかり波に
さらわれて、人もたくさん死にましたが、そのなかに
わたくしの父親は砂の中にさかさまに埋もれ、足ばか
りさしだして死んでいました。誰もかたづけてくれる
人もなく、わたくしは泣いてばかりいましたが、また
五日を過ぎると必ず乙波(次の津波)というのがよせ
てくるという噂がたってみな騒ぎだし、こうして五日
たった二十五日の夜、まことに、はじめにくらべると
劣るが、大波がよせてきました。ほんとうに大騒動で
した。この五〇年前の亡きあとをとぶらうため、この
ような石の[卒塔婆|そとうば]を建てたのです。運送を頼んだ舟が、
きょう積んできてくれました。わが父の碑だと思うと、
むかしのつらさがおもいだされて、つと胸がふさがり、
人目もはばからず泣いてしまいました。」と、老婆は
そう語って、「なむあみだぶつ」と唱え、掌をすりあ
わせてから杖をついて家にはいっていった。
これによって爆発当時や津浪来襲時の凄惨な光景をよ
く知ることができる。
厚沢部は幸いにこうした惨害からのがれることができ
たのであったが、降灰は乙部のように昼でも暗くなるほ
どであったものらしい。
この津波で壊滅的な打撃をうけた泊川に、東津軽後鷹
村の人山田甚五衛門が移住したのはその直後のことであっ
た。