[未校訂] その後については、最近苗木町八幡柴田淳一氏の襖下
張の古文書の中に貴重な史料が発見された。その文書は、
享保三年(一七一八)七月二六日地震により苗木城が破
損し、それを修理したという文書である。この享保の地
震は大規模であったことがこの記録によってわかる。
その経過については、七月二六日夜地震が起り苗木城
は相当破損したことが伺える。その破損箇所は内郭全体
に及び、本丸では本丸北方広間下、玄関下、西居間下、
南方台所下他四か所含めて一八か所の石垣が、二の丸で
は北方塀下、中門内、南方居間下、西方石垣、南方的場
塀下外の三か所の石垣が、三の丸では西方蔵下外、東方
蔵下四か所の計五か所の石垣が破壊したとしている。内
郭全体に及ぶ大破損であった。この年は閏十月七日時の
老中職であった久世大和守(広之)、水野和(ママ)守(忠之)、
戸田山城守(忠真)井上大和守(正岑)宛に報告されて
いる。そして一〇月二〇日には前記老中宛に修補申請し
ている。
その修理に着手し、享保八年(一七二三)一二月二六
日付で、築き直し元の如く修補した旨の報告を大目付宛
届出ていることがわかる。
またこの折の修補の裏付けになるような事項が楠家
(江戸期は霞上姓)の系図の中にある。祖先の由来書き
の中で
先祖ヲ霞上七左衛門橘正次ト言ヒ、承応元年和泉国北
野村に生ル 十六ノ時大工トナリ 江戸ニ下ルヲ以テ
延宝の頃苗木城主和泉守友春公ニ召抱ヘラレ苗木へ移
住ス 享保ノ初苗木城御譜請ノ事アリ 其際棟梁トナ
リ 天守閣ヲ造営ス其ノ功績ニヨリ士分ニ取立テラレ
…(略)……享保十五年苗木藩士トナル
とある。この記事から霞上正次が、享保の城閣修築に功
があり士分にとりたてられていることは、この工事が大
工事で難工事であったことがうかがわか(ママ)る。
また前述した、坂下門、大矢倉の修築の話は、三代友
貞の室が時の老中久世大和守広之の娘であったので、こ
の事と結びつけたものであって、享保の大地震による修
覆時は老中は久世大和守重之であったので、この重之の
指図を得て修理したそれを指すのかもしれない。という
のは苗木城の絵図を見る限りでは友貞代にすでに坂下門、
大矢倉の存在がはっきりしているので享保の修築の折の
可能性は高い。
その後についての苗木城の大改修等の記録はみあたら
ない。但し小地震等は何回か起こっているので小被害は
受けたと考えられる。